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俳句の海の冒険

人それぞれ俳句を始めるのに適した時期があると思う。早ければいいというものではなく、基本やろうと思った時がはじめ時で間違いないのだが、それでも学生時代にそのタイミングが訪れた人は幸運だと思う。凪の鑑賞の続きを書いていこうと思う。

塊に生るる 姫草尚巳
夏星や金箔は切り子を流れ
梅雨空や髪を梳かす手のこわばり
ビル街の液晶パネルはたた神

金沢大学俳句研究会への参加をきっかけに俳句を始めた姫草尚巳は俳句形式を手探りで押し広げようとしているように感じる。第二号から見られ今号でより多く発表された掲句のような破調はその表れだろう。もちろん俳句を始めて比較的まもない時期に破調に惹かれるというのはある意味通過儀礼的なところがあるが、単純にそれだけでなく、上五をやで切ってからの破調で生まれる切れの深さに興味があるように見える。「夏星や金箔は切り子を流れ」この切り子はカットグラスのことと読んだ。金箔入りの酒などを飲むときのグラスから流れていく様子だと思っていいだろう。や切り+破調の特長的なリズムで生まれた上五の深い切れは読者に夏星を思い描かせてから手元の金箔に視線が落ちていくまでの間に広がる星間の闇を思わせる。
また「梅雨空や髪を梳かす手のこわばり」と前号の「薄雪やつひに足あとのざはめき」「髪掻き上げて耳あらはるる菊桜」に表れているしっとりとした情感も見逃せない。足跡や耳など決して対象を直視しないそのもどかしさを短い俳句形式に押し込めた屈折が今の作者なのだろう。
尚、「ビル街の液晶パネルはたた神」に作者の中の新しい一面を感じ注目した。


アゲハ蝶来ぬ 北條壮紀
春暑しとろりと濁る池の水
仲直りしたにはしたが夏薊

今号からの参加者である。全体を読んだ感じからすると、おそらくこの作者もまた、金俳をきっかけに俳句を始めた作者だろうと思う(ちがったらごめん)。その中の「春暑しとろりと濁る池の水」は巻頭に句会禄のあるお花見吟行で詠まれたもので当日の最高点タイだったものである。暑しととろりが若干つくがよく抑制の効いた句だと思う。また、「仲直りしたにはしたが夏薊」の生な感じと夏薊の取り合わせはすごく面白いと思った。まだ少しぎくしゃくしている微妙な状態を夏薊がうまく表している。その他では「踏切にアゲハ蝶来ぬ列車来ぬ」「自転車に咲く昼顔をほどく雨後」など俳句化というか俳句としての表し方をまずは使えるようにしようという意志を感じる句が多かった。俳句らしさはともすればすぐに俳句臭さになってしまうが、「春暑し」の抑制と「夏薊」の妙と俳句形式を思い切りよく吸収する意志と、説明しすぎではあるが「死にたくねー捕らわれた蟬翅を振る」のナマな素直さが合わさるとどのような句になっていくのか楽しみだと思った。


鳴きごゑ  若林哲哉
ミニ四駆うぐいす餅にゆきあたる
賞状の筒の鳴きごゑ春の暮
海の日や箱に入れずのモデルガン

創刊号「百合くべて百合のかをりの焔かな」「夜の海を掬へば色のなき晩夏」、第二号「家を捨つ父も師走の星々も」と、繊細な感覚にすっと入って来る季語の確かさと言えばいいだろうか、整った句の中に季語の感触が生きているところは彼の特徴の一つだろう。「ミニ四駆うぐいす餅にゆきあたる」のシャーッと走るミニ四駆が、鶯餅に突っ込むときのモチッとした読みごたえはミニ四駆の意外さによるギャップに起因している。そして意外なのに句にしたときにまとまりがあるところが上手いし面白い。「賞状の筒の鳴きごゑ春の暮」賞状の筒の蓋を外せばキュポンとなる、よくそんなシーンが春の暮と合うと気づいたなぁと感心した。同じような題材でいえば創刊号の「ひらくたび光る卒業証書かな」を思い出すが、賞状の句の方がより作者のオリジナリティがよく表れているように思う。
最後に、「海の日や箱に入れずのモデルガン」はかなり面白い。比較的というかほぼ歴史なんてないような海の日という季語を使って、新しい祝日の何ともいえない手持無沙汰な感じや、箱の外に置かれた黒い塊の所在なさげな様子とがよくマッチしている。海という字の剥き出しの水のイメージと措辞の距離感がお互いを助け合っていて、弱い季語を上手く支えている。「夏の海」でも句としては成立するが、それだと実際の海を想像してしまい、モデルガンがやや押し負ける。その意味でも「海の日」は面白い選択だと思った。季が動かないかといえば、より適したものはあるかもしれない。しかしここで海の日を持ってきたところに、若林哲哉が上手いだけではない自らの俳句を手に入れようとしているように感じた。

この鑑賞には結構時間がかかってしまって、もたもたしているうちに何と第四号が発刊されるという。金沢大学俳句会がどのように変化を深めていくのかただただ単純に楽しみである。

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書評 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/11/11(日)00:00

俳人は俳句が読めないのかと言われて言い返せなかった話(再掲)

本件につきまして、友人の発言(趣旨含む)とプライバシーに関わる部分の削除依頼があり、私もそれが必要だと判断したため、該当箇所をすべて削除致しました。(2018/11/03 03:55)

再掲します。理由としてはひとまず(2018/11/03 03:55削除)や堀下さんと(2018/11/03 03:55削除)
いくつかの議論が起きた元の記事であるため、いくつか注釈をつけた上で参照できる状態を維持しておいた方がいいと思ったこと。その注釈の方向性がようやくでたことなどです。

まず、全部が全部そうではないですが、私自身はあまり難しいことが書けるタイプではなくて、割としっかり感情に訴えかける書き方をしています。その上でそれを、「良いもの」にするために、余計な一言を言わないように見直したり、対象を相手ではなく相手の「発言」に絞ったり、「この条件の場合には」というような留保や制限をかけて、言いたいことは言うけれど、相手自体を傷つけることのないように、こちらが調子に乗りすぎて不要な反撃を喰らわないように、すでに同じことを述べている人がいないか探すなど注意してきました。おそらく、そのおかげで、これまで反響があったものはほとんど好意的な反応でやってこれました。ほそぼそとですけど。基本的には発表前によく絞ることでリスクを減らして、主張をはっきりさせてきたのです。
で、結論からいうと今回はそこの部分が全然徹底できていなかったわけです。「そんな表面的な」と思うかもしれませんが、アウトプットする前にデバッグできていなかったというのが、今回色々と問題の起きた直接の原因になると思います。ちなみになぜそういう状態になってしまったかの細かい経緯までは、ここで話すつもりはありません。それは堀下さんと(2018/11/03 03:55削除)だと思いますし。

とにかく、その結果、次のようなことが起こりました。
・紹介と言ったにもかかわらず、実際は友人の読みを私の書き方でなぞったもので、その過程で挑発的な部分にのみ目が行ったまま文章にしてしまった
・そのため文章に現われた友人像は本来の友人とは離れた姿になった
・私の文体による文章と混ざってしまい、友人と私の線引きがなくなってしまった
・梅の句など私で読み切れないものは、分からないまま意味が通らないまま投げてしまった
・三島さんが淑気の句についてコメント欄で同じシチュエーションの読みをしていて、それに堀下さんが答えるというやりとりを見逃していた。

それらは通常であれば、そのままではボツというか、せめて書きながらブラッシュアップして、それなりに読める物にして公開するのですが、そうならなかったのは私がその句をちゃんと読めていなかったため、私自身の主張を通すという欲求が足りなかったのかもしれません。全体的にすごく軽率でした。

友人の発言にかこつけて堀下さんを批判したかったのではないかという疑問に対しては、堀下さんも私も基本的には議論を拒むタイプではないので、批判したいのであれば、そんな回りくどいことをせずに直接言います。同様に、匿名の友人がそもそも架空のものではないのかという疑問についても、そのような回りくどいことをする意味がありません。

問題の記事が文理解釈を低く見ているという批判については、それは、そんなことはないとしかいいようがない。文理解釈は大事。ボールも太陽も球やし、文理解釈上太陽という解釈に無理はない。そして「に」の解釈については、まず、「淑気満つ球と接する一点に」の「淑気満つ」は倒置法で、戻せば「球と接する一点に淑気満つ」となる。「○○に淑気満つ」という形は作例が多数あり、その「に」自体に無理があるわけではない。問題は「○○」に淑気が満ちるだけの面積や体積があるかだと思う。確かに点というと概念に面積は存在しない(らしい)ので点に淑気が満ちるのはおかしいとなるが、しかし現実世界での点は概念ではないので僅かでも面積があり、その大きな太陽が地平へ出る際の極小の一点(の面積)「に」「淑気満つ」というのが断然面白いのだと思う。それを文理解釈を低く見ているというのは違うだろうし、それでもいうならそれはもう読みの幅の問題ではないかな。

(2018/11/03 03:55削除)については、一部、「主語がでかい」とかいう人がいるけれど、その批判にどれだけの意義があるかは疑問です。もちろん自分に即した範囲だけで話すことは楽だし、間違いはないし、誠実そのものだけれど、他人に向けられた「主語がでかい」には「空気読め」的な周りを黙らせる力がありはしないだろうか。失敗することはあるかもしれないが、大きな主語で語ることで見えるものもあるだろうと思う。もちろん、そこにあるより大きなリスクや弊害に十分注意する必要はあると思うが。

本文中でも「この一件だけで、(2018/11/02 03:55削除)が証明されたとは思わないし、(2018/11/03 03:55削除)と書いた通り、これだけですぐ判断が固まるものではないし、対象も私が読めなかったとまず書いたうえで、そこから拡大する場合も「読みを軽んじる俳人」に限定している。そしてその俳人に私はもちろん含まれる。その証拠に最後も自分の問題として読みを恐れている。それを無視してなされる「火尖は自分の問題をすり替えて俳人全体の問題にした」という批判は無理筋すぎて答えようがない。「火尖は自分も含む、俳句の読みを軽んじる俳人を批判した」なら分かるし、それにならこれから満足のいく読みができるように頑張ると答える。

良くも悪くも、俳句の世界は評価の弾力性が低いので、この一件で、これまで私のやってきたことや言ってきたことが全て否定されるということはないし、今回のことを教訓にこれからなるべく良い文章を書くことで回復していけると思う。もちろん堀下さんの評価がこの一件で下がるということもないだろう。ただしかし、(2018/11/03 03:55削除)

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話題の句集岡田一実の「記憶における沼とその他の在処」の堀下翔の書評について、(2018/11/03 03:55削除)
堀下翔は
淑気満つ球と接する一点に 岡田一実
を評して、「高く上がった何かのスポーツのボールだけが空にある気持ちのよい絵面はたしかに「淑気」につきづきしくはあるが、「一点に満つ」ということはあるだろうか。「に」というのは、いみじくも句中にある通り一点を指示する格助詞である。「満つ」とはそぐわないのではないだろうか。「一点より満つ」(満ちてゆく)というのなら理解できるが。」と述べた。
しかし、(2018/11/03 03:55削除)一点に満ちたエネルギーという意味では、宇宙創生のビッグバン現象をも背景に潜ませて、新年の始まりを祝いでいると言えるかもしれない。なにより「一点に満つ」と言い留めることによって、ものの始まるギリギリのその瞬間の状態を表現しており、それはこの日の出という現象だからこそ成立する、この句のために考え抜かれた表現であると言えよう。一方、堀下のいう「一点より満つ」は字義上は正当であり、対象がボールなどであればいいかもしれないが、天体のスケールでやってしまうと空気がぬけていくような弛んだ感じがしてこの句には合わないと思う。

その他にも(2018/11/03 03:55削除)漢詩には詳しくないがぐぐると確かに杜甫に浮海の詩はあるようである。

(2018/11/03 03:55削除)
この一件だけで、「俳人は俳句が読めない」が証明されたとは思わないし、(2018/11/03 03:55削除)とにかく私は淑気の句にここまで深く入って読み取ることはしなかった。なんとなく空の天球そのものの一点というピンボケの読みをして明後日の方向を眺めていたのだ。なんということだ。どこかで読みを軽くみていたのではないか。そしてこのような事例はこの一件にとどまらないだろう。まったく、「ゆめ溺るな」とは読みを軽んじる俳人全員がかみしめるべき言葉ではないか。読者は必ずもっと全力で読んでいるし、俳人の読みも厳しく見られているのだ。

これから読んで書くことが少し怖くなった。
直近でいえば凪後半評は今まで以上に出し切ったものを書かねばならない。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/10/25(木)01:24

私の俳句を支えているもの

もしこれが事実だとすると恐ろしいことだが、


昨日はっきりと気づいたことがある。記憶力が鈍ってきている。
小説や漫画の登場人物を思い出せない、歌の歌詞が出てこない、直喩の句というような条件をつけて俳句を思い出せない。
これまで俳句の不調は、作句意欲と現実の重苦しい問題の不一致が原因だと思っていたが、それがテクニック面にまで影響を及ぼすとはやはり考えにくくて、つまり、記憶力の低下によって、私の俳句を作る脳内のフィールドが極端に狭くなってきたのではないか。
同時に、既存の俳句とのネットワークが弱くなって、作った句の可否判断に迷いが生じているのだと思う。それに、措辞の組み合わせや言い回しなどは既存の名句やこれまで読んだ句に無意識に頼っていたのであって、その輸入量や備蓄量が激減した今、生産量もあげられず出来上がりが恐ろしくつまらないことになっている。
それならそれで、輸入に頼らずオリジナリティを出して真に自分自身の表現をというのは、恐ろしく甘い考えで、脳内を照らす懐中電灯の灯りが弱くなってしまっていて、近くのものしか見えない状態でそれだけで作るオリジナリティがいいわけないだろう。

記憶力を抜きにしては、
陽炎へるまで視聴機を再生す
向日葵に人間のこと全部話す
混信の無線が冬と言うてゐる
のような句は生まれなかった。
記憶力というのは何もパクることだけに使うものではない。
自分の句を俳句記憶に照らして、新しいかどうか、今までにない感覚があるか
即座に判断できるのである。覚えているだけでは意味がなくて、その適切な
記憶の呼出と速度が自分の句を支えていたのだ。

記憶力の低下の原因に心当たりがある。
寝不足である。できなかったり書けなかったりするから、結構無茶して
二時間とか三時間睡眠+通勤睡眠で済ませてきた。悪循環!
しかし寝ると創作時間が確保できないし、早寝早起きして朝書きはやってみたが、全然できないし、しかし言うてる場合じゃない。

七時間睡眠の確保(10時寝5時起き)
10時寝のための家事の効率化
だらだら時間のうち不要な時間のカット
通勤書斎の実現
記憶の把握と補修、定着検索トレーニング
なるべくたくさん書く。
よく読む。昔のように一読して記憶というのは無理ならよく読んで何度も思い出すようにする。
思い出しながら書く。
下手な句でも発表する。
がんばるぞ!
と、まぁ、しっかり八時間寝たところ、記憶力はともかくモチベーションと危機感は戻ってきたようである。


雑感 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/10/15(月)07:39

We made you

ルター:「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」

リンゴ:「嫌や、無理。やめて」

という想像を妊娠検査薬の陽性反応を見せられたときにしないではなかった。
あるいは、吉野弘の「I was born」
しかし、胎児はすくすくそだち、生まれて尚もすくすく育ち、
今やそこに、というか初めから、私の意思は関係なく、自ら育つ別の人間。
では生まれる前の子に、「嫌や、無理。やめて」といわれたとして、
私たちは中絶を選べたか、もしくは生で中出しの誘惑を拒否できたか。
「しかしちょっと寂しいね」という妻と幸せでいつづけることを選べたか。
選べたかもしれない。選べたかもしれないが、
もしリンゴの木を植えるルターの言葉に続きがあれば、
「たとえリンゴがどうなろうとも」
ではないだろうか。
私たち二人は子供のことを純粋に一切考えることなく、人類のほとんど終点にこの子を作った。
その悔恨を持つだけの覚悟など少しもなく、その瞬間は「生まれてきたお前がどうなってもいい」と決断した。
「I was born」と「We made you」の間には絶対的な隔たりがある。
私たちが作った全く新しい別の人間。


雑感 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/10/14(日)10:21

航路予測-金沢大学俳句会誌「凪」を読む

私が俳句を始めたのは大学生の頃で、しかしその頃は、学生の俳句会を作ろうなどという行動はついに起きなかった。想像はちょっとはしたけどネットから結社というルートだった。
だから知己の若林哲哉が金沢大学俳句会を立ち上げて、仲間を集めて、句会を開いて、彼らが会誌「凪」を発行してというのを結構眩しく思いつつ眺めていた。
創刊メンバーは、若林哲哉、ツナ子、敷島燈、坂野良太、姫草尚巳の五人。第二号ではそこに岩田怜武(さとむ)が加わる。第三号ではさらに北條壮紀(そうき)、他に新入生が二名加わり総勢9名となる。新入生の作品はおそらく次号となるだろう。それも楽しみである。
今回は第三号の句を読みながら、既存メンバーは過去の句にも触れながらどのような変化の最中にあるか見ていこうと思う。 

頬杖の耳朶  岩田怜武 
麺類のレーンに並び直せ夏
街は夜空いたビールの缶を積む
まずは掲句ニ句に注目した。カフェテリア方式の食堂で、カウンターで麺類を頼もうとしたら、「並び直せ」と言われてしまって…という感じだろうか。並び直すという徒労に命令形の勢いでやるせなさに迫られている印象が生まれた。そこに唐突に夏と付くことで、その感覚がぐっと圧されて濃くなったように思う。その感覚は次の句にも通じている。「街は夜」という広い賑わいの景に対して、空缶を積むという、行先不明のやるせなさが面白い。ちなみに第二号初登場時にも「春の山裏側は見ていないけど」「新年の抱負いわされそうになる」を発表した作者。この微妙な屈託が彼のベースにあるのだろう。それに加え、第三号では表題句の「頬杖の耳朶のかすかに涼しかり」の俳句に慣れた表現も見られるようになった。この句自体は、まだこなれているという以上のものではないが、彼の「行先不明のやるせなさ」のまま、表現が洗練されていくと中々面白くなっていきそうである。作者は変化の只中にいる。

きづき  坂野良太
ほのかなる手に残る香の夏祭り
浮いてくるゴム人形の歪み顔
ストレートな句が並ぶ。夏祭りの句はデートの句だろうか。ゴム人形の句はストレートな表現がうまく活きた。ゴム人形もそうだが今回の発表作の中の「洗い髪なびかせ走る吾走る」「ザリガニを吊り上げる糸切れる音」など上五中七で述べた内容に下五でもう一押しする作り方が多くみられた。その中で、ゴム人形は下五に説得力のある意外性があり面白いと感じた。若林哲哉に声をかけられ俳句を始めた作者であるが、第二号の「はるさめをぱくぱくたべるにしきごい」の単純さ、分かりやすさをベースに「歪み顔」のような意外性を素知らぬ顔でさしこんでくるとぐっと面白さが増すように思う。

振り返って立夏  敷島燈
春雷を聞いて八秒の留守電
嘘つくまで舌磨きして春時雨
一句目、元となった事実はどうあれ、八秒と分かるのは吹き込む側より、留守電を聞く側だろう。留守電のリストの表示に8秒と出ていたのだと思う。これが吹き込む側であるならば、画面に表示される時間は留守電のアナウンスも含まれるので1分前後になるだろう。ここまでは理屈の話。「春雷を聞いて」とあるが留守電を聞いたかどうかは明記されていない。私は留守電を聞いていないととった、春雷という何かしら予感を感じさせる季語に8秒だけのメッセージ。重要なメッセージかもしれないが、8秒では複雑な話ではない。「八秒の留守電」とだけ置くことで、聞くか聞かないか一瞬の逡巡が感じられ、それが8秒という短いメッセージに春雷の予感性と釣り合うほどの存在感をもたらした。
二句目、準備を念入りにしなければならないほどの嘘と、嘘をつき終えた後のひりひりとした痛みまで想像させる一句。春時雨の優しさはしかし、すぐに降りやんでしまって、なにか取り返しのつかない変化を与えそうである。
創刊号では「ほんたうのさいはひに死す蜻蛉かな」「夢果てて私だけがみてる蛍」と終わりの景色に思いを馳せていた作者だが、今号では予感や続いていくものに対しての句が多かった。もっとも、それは不可逆的な変化ではなく、作者の描こうとしている世界の広さがあらわれているのだと思う。

このまま夏になるよ  ツナ子
眉毛剃りすぎて短夜許さない
泣かされても同じかたちで昼寝する
世界ということならこの作者の世界の作り込みへのこだわりは中々徹底したものを感じる。テーマとか題材とかそういう統一された話ではなく、あくまでも作者が生んだ俳句のその周辺までも動いて生きているようなという意味で。例えば抽象的な話になるが、私からは普段、他人の世界は暗幕につつまれて見えないが、ツナ子俳句によって、彼女の作った世界に十七音の隙間が生まれ、そこから暗幕の中が覗けるような印象である。沢山の句を読むことで作者の生み出した一つの世界を別々の切れ目から見ているような印象を受ける。
夏痩せの手首がそこを右と言う」「春夕かしこで結ぶラヴ・レター」「八月十五日ラーメン茹ですぎる」(以上創刊号)柏餅の柏かさねる二人暮らし靴下を脱ぎたがるひと春炬燵」などツナ子世界で生きる人の暮らしがそこにあるのである。

当初は、凪創刊の言葉「時に荒れ狂う言葉の海を渡っていくためのバイブルとして「凪」が僕たちを導いてくれることを信じつつ」と、若林哲哉一人からの仲間集めの経緯を絡めて、漫画ワンピースになぞらえて書き始めたのだけど、あまりにもパロディの度合いが高くなりすぎてしまってボツにした。しかし小川軽舟の著作は「現代俳句の海図」であるし、坪内稔典は「船団の会」の代表だし、氏は海賊船の船長で間違いなさそうだし、いつか使いたい案ではあるな。

後半では姫草尚巳、北條壮、若林哲哉について書く。

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書評 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/10/14(日)08:42

リフレクター


しかし、どのような状況でも私は俳句を続けるつもりなので、あらゆる方法で俳句の水溜りを豊かにするし、俳句に専心することだけではそれが達成できないとしても、だからと言って私の俳句とその考えを磨くことを怠る理由にはならない。やるかやらないかしかないならやる以外ない。俳句もやる。それ以外に必要だと思うこともやる。

梅雨空に「九条守れ」の女性デモ 
この句は、本来掲載されるはずだった、さいたま市大宮区の三橋公民館の「公民館だより」に句の内容(政治性)を問題視され掲載を拒否されたものだ。振れ幅でも一度、俳句としての出来は、外からの批判に耐えられる作りになっていない、いわゆる上手い句ではないと述べたうえで、掲載拒否の問題点について言及した。

簡単に経緯を説明する。
・公民館を利用していた俳句サークルは毎月句会の互選で「公民館だより」に載せる句を選んでいた
・その月は梅雨空に「九条守れ」の女性デモが選ばれた
・しかし公民館は「公民館の意見と誤解される恐れがある」と掲載を拒否、一月後改めて「世論を二分している内容の作品」は掲載しないと回答した

今、改めて考えると、句としての良し悪しの他にこの句の「政治性」の見え方について、もう少し突き詰めて考える必要があったのではないかと思っている。というのも句の良し悪し、公民館の裁量に話題が偏ってしまい、この句のもつ政治的批判性の性質についてはきちんと論じて来なかったからだ。私にそう思わせたきっかけとして鷹の同人、天地わたるさんの、「梅雨空に」をとりあげたブログ記事がある。
詳細は実際に読んでもらうとして、ここでは主要な部分のみ引用する。

「はっきりいって公民館も書いた人も知的レベルが低いのである。まず思想的なことを排除したいのなら公民館側はしかるべき選者を立てて選るということをすればいい」

「公民館もそのように専門家を擁して市民の句のよしあしを選別するシステムにしておくべきであった。そうすれば価値の低いスローガン俳句は容易に拒絶できたであろう。誰でも好きに書いたら載せてあげますよ、といっておいて政治性うんうんで拒否するのはまずい手であろう。」

「この句は俳句としてはよくない。表現で生きようとする者は芸術性の意識がなくてはならない。こんな句がいいと思っているのか。」

「俳句にデモ行進するプラカードの文言を書いてもどうしようもないのだ。」
「俳句は意味や思想などを訴えるものではないのである。そういう意図をつよくこめればこめるほど汚れてしまう。俳句はもっと感覚的なもの。意味がないから心がほぐれるものなのである。」

とまぁ、私も掲句の評価はそれほど高くないのだが、かなりのこき下ろしっぷりである。そしてこのような意見は何も彼一人だけが言っているのではない。ウェブ上のコメントなどに似たような意見が散見されるのだ。しかし、待ってほしい「梅雨空に「九条守れ」の女性デモ」の句自体のどこに、「思想的なこと」があった?句の表現するシーンは「スローガン」なのか?プラカードの文言をそのまま載せることに、季語との関係で技術的な不用意さはあるかもしれないが、「梅雨空に「九条守れ」の女性デモ」は形式的には純粋に客観写生である。作者も実景を書いたと述べている。もちろん同時に平和を願う気持ちもあったと言っているが(東京新聞 2015年6月23日 朝刊 )、この俳句自体が「意味や思想」にリソースの大部分を割いているだろうか?それを訴えているだろうか?よく見てほしい、全然そんなことないのだ。少なくともこの句は「九条を守れ」とは言っておらず、あくまでも描写に徹している。

週刊俳句の世界の見通しで俳句の持つ批判性について触れた通り、俳句には政治的、社会的なテーマをありのまま描写しつつも沈黙することによって、読者に判断を迫る一種のインスタレーション的側面がある。

天地わたるが何に不快感を示しているか、何を馬鹿にしているかと言えばそれは「「九条守れ」の女性デモ」という題材を取り上げたことのみが、思想的であり、自身の考える「芸術」ではないと言っているのである。
彼(彼等)の独善的な狭量さを明らかにしたこの句は、日本を包んでいる空気の一旦をまざまざと引き出したと言えるだろう。

私の憧れの俳人である藤田湘子は「入門俳句の表現」でこう述べている。
革命のこころ育てし机冴ゆ  井上信子
社会性俳句という言葉が俳壇を闊歩した時期がある。あの頃の若い作者は、社会性でなければ俳句は古い、という偏った観念にとらわれていた。(中略)その反省からか今は掲句のような発想さえ影をひそめ、もっぱらただの人事詠が幅をきかしている。それも俳句の流れであろうけど、私に言わせればやはり行き過ぎ。(中略)ときに社会の動き、政治のありようにも眼を向け、十分に咀嚼し発酵した思いを、あくまで自分に即して表出することも大切。いろいろな多様な素材・発想があって俳句は肥える。大きな一つの流れのみに固まって、他をかえりみぬというのでは、俳句の痩せをさそうばかりだろう。

良い俳句をつくることにかけて鬼のような湘子がそう言っているのだ。
梅雨空にの作者が俳句を続ける限りその世界は発酵してゆき豊穣になっていくだろう。

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ちょっとこんな感じでちょっとやんちゃに元気よくいろいろ書いていこうと思う。


未分類 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/09/26(水)08:23

月がきれいだったから

そうだ、昨日も今日も、月がきれいだったから月の句を集めて発表しよう。過去のと今から作るの混ぜて。


月がきれいだったから 西川火尖

ろろろろと春満月へ向かふバス
紙芝居みたい春満月の海
春の宵大きな月を心配す
春月の余熱のやうに口ずさむ
夏月の縁取りは錫眠らねば
咳の子に夏月近過ぎはせぬか
梅雨の月成分無調整ミルク
糸鋸盤並びて月の涼しかり
けふの月きれいな紙を薦めけり
次々と月光役の子供来る
舞台袖まで月光の領土なり
録音のはじめの無音月の暈
月蝕の決まりをつくり待つてゐる
妻に火の起源を話す無月かな
米研いで月の雨上がりの匂ひ
魚になる子は月光に晒すべし
月光に骨の掠れるまで棲まふ
月光の鉄路を叩く保線員
けふ上がる月よ我が子は初めてか
冬の月出てる怖がらなくていい

今思い出せるやつ+新作
何か春とか夏がたくさん混ざっちゃったけど、春月、好きなんやわ。


未分類 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/09/23(日)22:58

書き出し

原稿の書き出しを、うーんうーんと今まで書いては消してしていたけど、ようやく納得のいく鑑賞が一個できて、その流れで原稿全体のテーマも決まった。そこに至るまで幾つもの書き出しを書いて悩んでいたが、どれも不要になってしまった。結局どの書き出しとも関係のない内容になりそうなので供養のためにだしておく。


take1

高浜虚子は「極楽の文学」(昭和28)で「如何に窮乏の生活に居ても、如何に病苦に悩んでいても、一たび心を花鳥風月に寄することによってその生活苦を忘れ病苦を忘れ、たとい一瞬時といえども極楽の境に心を置くことが出来る。俳句は極楽の文学という所以である。」と俳句について述べている。これを読むと、羽海野チカの漫画作品「ハチミツとクローバー」8巻に出てくる健康ランドを思い浮かべてしまうのだが、最近どうにもその俳句健康ランドに居心地の悪さを感じてしまうのだ。というのも、


take2

もうすぐ連載が再開する冨樫義博の「ハンター×ハンター」という漫画作品では「制約と誓約」という概念が登場する。これは、術者自身に何らかの制約を課し、その遵守(守れなかった際の犠牲)を誓うことで、術者の特殊能力(念という)が向上するというものだ。当然、厳しい条件を課すほど著しい効果を発揮する。そして俳句においてその「制約と誓約」を最も多く取り入れたのが、高浜虚子である。虚子は俳句に「客観写生」「有季定型」「花鳥諷詠」といった制約を課し、それが守れなかった際は「それは俳句ではない」という誓いを立てた。その能力「極楽の文学」の力は凄まじく、虚子と彼が率いたホトトギス一派の俳句能力者は数多の名句とともに、俳句史を形成した。
しかし、いつのころからか、あるいは初めからか、というより虚子からして既に「制約と誓約」を他者の句に向けて課し、「俳句ではない」という判を押してきたのもまた俳句史の事実である。

前置きが長くなるのは悪い癖だが、こういった入りの部分を書くとテンションが上がるのでよくやってしまう。


未分類 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/09/18(火)03:22

避けられそうにない

愚かなやつが愚かな指導者を支持するのは当然だし、

そのせいで取り返しのつかない損害を被るのも当然だし、
それが自らの選択のせいだということに気付かないのも当然のことだ。
正直勝手に滅んでほしい。
しかし、その巻き添えで私や私の家族も犠牲になるのもまた、当然なのだ。
困った困った。


雑感 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/09/12(水)01:38

こういうの俺の役回りじゃないんだけど

週俳の「権威的な態度」を批判するにあたって、まず自らの権威を真っ先に名乗るという菅原慎矢(第五回芝不器男賞齋藤愼爾奨励賞)さんの渾身の捨身ギャグに誰もつっこまないのは、果たしてどういうわけなのかね。みんな冷たいんじゃないの?
http://weekly-haiku.blogspot.com/2018/07/blog-post_93.html?m=1

a.読者や運営に権威を示せば一目置かれると思った。
→かなり読者と運営を見下げてるよね、それ。それならそれでいいんだけど、その場合ハナからそういう色眼鏡で見てるってことだな。こいつは。

b.かっこいいと思った
→人それぞれだろうけど、俺はかっこ悪いと思う。

c.単純に自己紹介
→権威的な人なんですね。   


ちなみに、俺は受賞歴をひけらかすの全然構わないと思うよ。せっかく獲った賞だから有効活用しない手はない。今回のが有効活用かというと、俺はそうは思わないけど。

テーマ:俳句│ジャンル:小説・文学
雑感 | コメント(2) | トラックバック(0)2018/08/31(金)07:54

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自己弁護

kasen

Author:kasen
1984 11 生まれる。
2005 03 俳句を始める。
2006 01 炎環入会

好きな食べ物・ラーメン
好きな建物・図書館
好きなのは言葉。

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