タバコのflavorがした

私にとってはとても重要なテーマなのできちんと考えを残すことにします。

俳人の政治的な発言について、twitter上で下記の内容のツイートがありました。


俳人は政治的な発言をして欲しくない

政治的なスタンスを持ってほしくない


そもそも他人がどんな考えを持とうと、一向に構わないのです。仮にそれを外に表明したって「私という俳人は政治的な発言をしない」「私は政治的なスタンスを持ちたくない」ならば、イイネを押して承知しましたと思っておしまいです。あれこれ文句をつけるつもりなど本当にないのです。

ただ、今回は「俳人は」となっているので、そこには火尖も含まれているのです。そして、私は一応俳人ですけど、政治に対して俳号のまま発言するし、俳人としての政治的なスタンスを持っています。つまり、政治的なものに対する沈黙を願うこのツイート(思想)が生まれた理由、あるいは当事者の一人といえます。だって、誰も政治的な発言をしなければ、そんな願いも生まれなかったでしょうし。というわけで、このツイートに対して自分の考えを述べる理由が私にはあります。ここまでは一応問題ないはずです。その発言を尊重することと何ら矛盾しません。それに、いつかは書かなければならないことだったと思います。


話を続けます。基本的には人は人を理解することは(できません、と言いたいですが、それはそれで証明したことがないので)簡単ではありません。人のことは最終的には想像するしかないわけです。そこで俳人が政治的な発言をしない方がいい理由を自分なりに考えました。かなり自分的には納得の行く理由で、おそらく少なくない方が俳人は政治的な発言をしない方がいいかもしれないなと思うかもしれません。それはそれで構いません。


もはやあらゆる意味で説明不要の料理漫画「美味しんぼ」にて、ある料理人が海原雄山の美食倶楽部の昇格試験を受ける回があります。その料理人は腕は確かなのですが小心者で、試験中に心を落ち着かせるために煙草を吸ってしまい、課題の料理に臭いが移って雄山を激怒させてしまいます。

おそらく、一連のツイートが指す政治的発言とは、美味しんぼにおける煙草のようなものではないでしょうか。「俳句が不味くなるわっ!!」というわけです。美しい日本料理に煙草の臭いがつくなんて興醒めもいいとこですよね。「俳句とは切り離して考えてよ、手はちゃんと洗ってるもん!」とこちらが言ったところで、雄山からしたら「政治臭い口で俳句を語るな!出ていけ~!!」といったところでしょうか。私も煙草は嫌いなのでよくわかります。

確かに、良い俳句を作る俳人のツイートなりブログなりが、俳句とは全くかけ離れた「アベ政治を許さない」とか「憲法を守ろう」「共謀罪は危険」とかだらけなら、その発言の是非はともかく、単純に冷めるのも無理はないかもしれません。

つまりこの考えに立てば、俳人は余計な夾雑物を持ち込まず俳句に集中するのが良いということですね。これは他のジャンルにも当てはまりそうです。音楽家や俳優、芸術家、舞踏家も同じロジックで政治的な発言を控えるのが良いでしょう。実際フジロックに対する「音楽に政治を持ち込むな」というパワーワードは記憶に新しいかと思いますし、椎名林檎が国の仕事を引き受けたときにも、同じような批判がおきましたっけ。


しかし、本当にそれでいいの?もし、今いる国内外のそういったアーティストたち全員が政治的な発言をしなくなってしまったらどうでしょうか?世の中には今以上に素晴らしい作品が溢れ人々は余計なバイアスを受けることなくそれらを享受できる?本当に?私は正直言って違和感があると思います。仮にそうだとしても、自身の表現活動のほかは、ランチの写真をアップすることぐらいしか話すことのない表現者しかいなくなるなんて、私は嫌ですけどね。


政治だろうと食べ物だろうと、自身の生き方に深く根ざした考えの表明を避けて、ファブリーズをかけるようなことが良いことだとは思いたくないし、だからこそ「他者の政治的発言を望まない」という政治的発言も、誰に遠慮することなく言えばいいと思ってます。

私は、分かり合うことよりむしろ、確かめながら平行線を維持しつづける営みにとても価値を感じている。



超余談

まぁ、正直なところ、平行線だろうと島宇宙社会を越えようとする工夫のある発言でなければ意味がないと思ってるし、ただ、そんなの気にしてる人多いとは言えなくて、いつも申し訳ないなという気持ちはある。彼等は彼等が糾弾している人にこそしっかり聞いてもらわなければならないはずなのに、内輪でぐるぐる回るようなことしかできていない。そんなことで、本当に憎悪と嘲笑の拡散力に対抗できるとでも思っているのだろうか。私は匂うようなユーモアが欲しいよ。



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俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/02/03(金)07:04

里1月号を読む3(囚われ者)

そういえば、なぜ私が里を持っているか振れ幅ではまだ触れてなかったですね。


里1月号に天宮風牙さんが火尖小論「囚われ者」を書いてくれて、火尖も旧作15句「偏り」、新作十句「隔たり」を出しているのです。それで手元に里があるのです。そこで自句自解ならぬ、自分自解、たんなる自分語りですが、少し書いてみましょうか。


以前、外山一機さんが書いてくれた小論にあった「西川の句の、良かれ悪しかれ俳句形式に依拠した自らの表現行為の倫理を疑うことのないようなふてぶてしい趣」(敗色のなかに詠う―西川火尖小論―

この一文を読んで、ああそうか、なるほどなぁと思った。これまで何度も触れたが、私は俳句の初学時代、とにかく独学だったので、人の句の型に自分のイメージを流すような練習ばかりしていた。ようは替え歌だ。その上、藤田湘子の20週俳句入門と俳句実作入門をかなりシビアに実践するなど、まぁとにかくこれでもかこれでもかというくらい俳句形式の型にはまることを上達の近道としたのだった。そこに根差した形式への依拠は私の特徴の一つだと思う。実際、風牙さんも「型にはまりながらも型から逸脱しているところ」(「囚われ者」里2017年1月号)と、火尖の俳句の型についての言及がある。そして、型にはまった上で、そこから逸脱しているところが「非凡な魅力」だと言うのだ。もし、そうならとてもうれしいが、いったい私はどうしてこうなってしまったのだろうか。ひとつ心当たりがあるとすれば、というか、そこに答えを求めるしかないのだが、やはり私のこれまでの生き方が影響しているのだと思う。


一番肉体が健康的だったときの仕事は面と向かって人から「底辺」と呼ばれる仕事だった。

周りはリーマンショックのあおりを食らって流れ着いた人が多くて、同期には話の通じる人が多かったが、なるほど、古参の中にははっきり言ってひどい人間もいた。こう言っては申し訳ないが、粗野で野蛮で自堕落な人間たちだ。しかしそれより我々に対する雇い主の扱いの方がひどく、いつしか「早く人間になりたい」が口癖になっていた。そういう職場で三年余り過ごした。ともかく、働かなければ食えないし、卑屈になる以外に耐える方法はなかった。職業で人を侮蔑するというのがどういうことかわかった。せっかく東京に出たのに、ほとんど句会に顔を出さなくなった。適当にごまかして仕事を言うのは辛いし嘘がバレるのは怖かった。世間の目で自分を見ていた。なぜこうなったか。

もともと実家は決して裕福ではないが、私と二人の妹を私大にやれるだけの余裕のある家庭だった(今からすると裕福以外の何ものでもない)。決して学校の科目に拘るような家庭ではなく、教養と思考を何より大切にする家庭だった。実際、妹二人は彼女たちの努力もあろうが、夏期講習程度の塾通いで難関大に入学したのは、思考が鍛えられていた結果といえるだろう。そして一族の多くが生業としている仕事に就いた。私自身、センター試験の一月前に受験勉強を始めて滑り込みで大学に入学できたのは、家庭教育のおかげだとは思う。しかし楽な方へ楽な方へ流れてしまう性格では継続して努力することができなかった。これが致命的で、肝心な時に頑張れない。それでまぁ、前述の「底辺と人から言われる仕事」まで一直線だったというわけだ。一つだけ良かったことは、厳しい環境で思考して初めて広がる類の視野を手に入れたことだろうか。多分、型から逸脱するという部分と、風牙さんの評論中で書かれた「冷静に己の境涯を見つめる」という部分は私の中でイコールで結びついている。


ついでに言うと、これは少し恥ずかしくてあまり公言したくないのだけど、400字エッセイを読めば分かると思うが、全然大したことないことにいちいち大げさにリアクションして、いちいち傷ついてしまうというのが、感受性というか弱さで、もう、モロ俳句に出てしまっていると思う。


そして現在、転職、非正規、正規雇用を経て、そこそこ平穏な生活をしているが、「底辺」で思い知らされた人間のことは、私が私を詠む限り、これからも意味合いを変えながら常に私の中にある。そういう意味でまさしく私は「囚われ者」である。


向日葵に人間のこと全部話す  西川火尖


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/20(金)00:43

里1月号を読む2(いい俳句を読むと焦る)

殴られた方が謝るおでん酒     喪字男

木枯を紙の箱へと仕舞ひけり    喪字男

全員は入りきらない炬燵かな    喪字男


Twitterを始めて知った作者。里だったとは。ここで上げた句の他に「少年のいつも傷つく冬の森」なども出てきて、いや、詠みの振れ幅が大きいとか言いたいんじゃないねん、むしろ一貫してナイーブ。


水仙花右の乳房に右の修羅     渡辺 多佳子

手套は手のかたち手套は手のかたち 野名 紅里

肩までの手袋蓮根掘りに掘る    島田 牙城


右と限定することで、フォーカスを当てたり、リフレインが手のかたちを確かめる動作に呼応していたりとか、畳み掛けのイメージとか、言葉と身体性のつながりが強い。


いやいやをするのでさざんくわがちるよ  水口 佳子

毛糸編む森の暗さの磨硝子        水口 佳子

枯蓮の水から下も枯れている       男波 弘志

放哉が済ませたる死とならぶ鳥      男波 弘志

朝礼の最後に風邪の人が来る       脇坂 拓海


すごいいい。律しながらも自由な俳句。


考えている雪よりも遠い場所    月野 ぽぽな

この重き蒲団隣に母が来る     小林 苑を


作者それぞれの違いがあって、それぞれ自分の作り方を信じるような感じ。

それぞれの俳句を志向するような句が多かった。自分で自分の面倒を見るような、律しながらも自由というか。名の通った若手が多いのも、佐藤文香の影響もあるかもしれないが、それも含めて雑誌の土壌がいいのだろうと思った。


今回取り上げなかったのは、コメントが思いつかなかったからというものもあった。そういうのが、次の俳句だったりするのでよく覚えておこうと思った。


これは、俺も頑張らないと。



俳句の振れ幅 | コメント(2) | トラックバック(0)2017/01/19(木)22:20

里1月号を読む1(俳句読みながら思ったこと言う)

シンプルに好きなことを好きなように書けばいいのだ。


里2017年1月号をいただいた。

さっそく面白かった句や文章をちょっとずつ挙げながら好き勝手書いていこうと思う。


憎みあふ神の御子らが野に遊び  正木 美和

寒菊や現るるとき人は顔     田中 惣一郎

鱈ちりや誰も彼もてんでばらばら 瀬戸 正洋


まず、「野に遊び」「人は顔」「てんでばらばら」最後には作者の好きな方向へ行くような句が多かった。みんなてんでばらばらで面白い。


てつぺんの黄に白菜とわかりけり 天宮 風牙

くらがりを映す水なし龍の玉   堀下 翔

山茶花を嫌と言ふのでそうかとも 樽本 いさお


作者が違っても似たような句が続くことなく、個がしっかりあると思った。上の三句もそれぞれの世界を屹立させてる。


朝刊に重さがありて十二月    塩川 佑子

極月や画鋲の上にセロテープ   内堀 うさ子


ふと気付く感覚や目に留まるものを、「発見!発見!」と騒ぐのではなく、すっと立ち上がるように俳句にする。大声を立てない。


番地からおよそあの辺冬銀河   仲 寒蟬

薬喰寝癖の髪が鬼のやう     仲 寒蟬


「あの辺」で意味が切れるのか切れないのか、私はこれを漏れてるとでも呼びたい。そしてこの句の場合はそれがとても良く働いていると思う。


湯豆腐やすこし直され箸づかひ  美月

寒紅のをんなの肩をひとつかみ  谷口 智行

脚立冷たし五段目に傘引つ提げて 小鳥遊 栄樹

着膨れと着膨れ占いの館     木野 俊子


映像や温度をありありと想像できる。それぞれのワンシーンの構図に作者の神経が行き届いている。


藍色の直垂衾越しに抱く     中山 奈々

冬晴や花のかたちの砂糖菓子   ローストビーフ


夜具の分厚さと湿気、直垂衾では抱きしめてももどかしい

一方、冬晴のこの明るさと措辞の形の美しさ。

実は炎環と比較しながら読んだ。炎環ではあまりこれらの感想が当てはまるものは少ない気がした。

それぞれに良し悪しはあるのかもしれないが、実感として気になった。




俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/17(火)02:11

かぞ句会で山口優夢に会った

さっきの記事、あれな、あの行儀の良さは、葉月さんの週俳の子連れの記事で結構知られたかもしれんくて、びびっちゃって、後半をまるまるカットしたんだ。

後半はほとんど自分のことだけのいつも通りのやつだ!


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そして、子連れ句会の話とは少しずれますが、かぞ句会で山口優夢、江渡華子両氏に初めて会いましたよ!ていうか優夢さん「振れ幅」読んでたし。ぺこにゃんのこと知ってたし。私はこれまで同世代の俳人とは極端に交流が少なくて、どれくらい交流がないかというと中山奈々と同じ大学なのに在学中ほとんど話さなかったくらい人付き合いのない人間でしたし、当時同志社にいた久留島元が同世代だと知ったのも東京に下ってからでしたし、そんな私が他の若手のことをどう見てたか、当時、人から底辺と呼ばれる仕事をしてて、羨望と嫉妬と、仲良くしてみたいけど、何かライバル、いや、ライバルはちょっと活躍中の相手に悪いし、ていうか自分なんか相手にされへんやろなぁ、敵、ああ、もう敵でいいわ、全員敵視、どうせ会うような機会もないし!敵愾心でがんばる。作品とか散文はめっちゃ一方的に読むからお前らのことめっちゃ詳しいからな!特に山口優夢は一緒に週俳の作品デビュー(だったはず)やし、毎週どこかで何かしら書いてたし、火星の研究者やし、新聞社やし、どっちやねん残像かよ。とまぁ、こんな有様でして、ひどいな真実って。

 

今は私は私のやることがあるので、人と比べてどうというのは、ポーズとしてとって見せることはあるけど、結構収まってきて、ようやく「賞をきっかけに始めた俳句」が抜けつつあるのかなというところなんですが、ともかく、まぁそんな折ですよ。彼に会えたのは。ラインを交換したんですが、人付き合いがあまりうまくないのは相変わらずなので何を送っていいかわからない。でも四回目の子連れ句会のお知らせは送ろうと思います。


優夢さんは、まぁ、想像通りの人当たりの良さでしたよ。知ってたねんな、そういう人だろうというのは。


何より、火尖は書いてこれなので、話せば底が浅すぎてすぐに会話が詰まるので、それを取り繕うことばかり考えて基本誰にも会いたくないのですが、去年あたりからできるだけいろんな人とあって、吸収して面白人間になれたらいいなと思ってるのでみんな我慢して手伝ってください。

かぞ句会、無点やったねんな。それも含めていい句会でした。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/14(土)19:28

「子連れ」と「かぞ句」

少し間が空いてしまったのでそんなに詳しいことはかけないけど、

10月30日、三回目の子連れ句会がありました。

題は「食べ物」、大人は6名くらい?子供はいっぱい。

子連れ句会については、名前の通りですから説明不要だとは思いますが改めて言うと、子育てで俳句から離れた俳人や、子育てをきっかけに俳句に興味をもった人が、子供を連れて気兼ねなくできる句会のことです。

子供は子供同士遊んでもらって、大人は大人同士句会です。みんな子連れで来てるか、サポートで参加してもらってるので、途中騒がしくても退出しなくていいので助かります。

最近は現俳協の青年部主催で同様の趣旨の「かぞ句会」も始まって、今度は別のところ主催で歌会もあるらしくて、子連れ前提の句会があればいいなぁと想像してたころからすると、ちょっと変化がすごくて、どうなってるんだと思いますが、よくよく考えると、「子供連れてきて句会やろう」というだけなので、何も難しいことはないのです。やろう、子連れ句会!

ちなみにかぞ句会は、スピカの三人が中心になって、企画して、息子は紗希さんからりんごをもらって大喜びでした。あと、ついにあの俳人と初めて会いました。夫婦での参加もあって、かなり良い感じでしたよ。

ここまで書くとなんだかとってもいいことだらけのような気がしますが、三回目の子連れ句会とかぞ句会に参加して、何個か留意点があって、今後新しく子連れ句会を企画する人の参考になるかもしれませんので書いておきます。


・公民館の和室は比較的危険なものはないですが、かくれんぼを始めたり鬼ごっこを始めたりするので、ぶつからないように気を付けたり、けがをしないように気を付けないといけません。


・できるだけ広い部屋を取りましょう。


・大人は多いほうが助かります。第三回は葉月さんと、てふこさんに来てもらいました。ありがとうございました!


書いてみると当たり前ですが、句会への注意力は落としてでも、子供の動向は気にかけて安全確保が第一です。年長の子が小さい子と一緒に遊んでくれたりして、だんだん仲良くなってくの見ると連れてきてよかったなと思います。特にうちの子は休日仲良く遊べるお友達がいないので本当に助かります。

そして、小学生くらいになると、結構しっかりした句を出してきます。その前も四歳の子のビビッドな俳句に驚かされましたが、かなり面白い会になってます。

第四回は二月二十五日を予定しています。興味のある方はご連絡ください。

タイトルで言う割には内容に触れられなかったな。次回は熱いうちに記事にします。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/14(土)18:29

神奈川大学全国高校生俳句大賞最優秀賞について

兄面の兄恨めしき唐辛子

日記買う姉の意地悪書くために

かき氷弟らしくない自分   三原瑛心

これらは昨年発表された第19回神奈川大学全国高校生俳句大賞の最優秀5作品のうちの一つである。単発の賞としては高校生俳人の注目度の高い賞と言えよう。掲句に書かれているのは、兄姉に対する負の感情、自身の屈託を痛いほどストレートに詠った作者自身の姿である。

俳句甲子園未経験の私が抱く一般的な高校生俳人のステレオタイプを考えるとすると、それは、高水準の俳句スキルと感性を武器に攻守両面において立ち回りの効く句を発表し、ディベートも的確、俳句甲子園を勝ち上がってウェーイというもので、最後は幾分やっかみも入ったが、大人俳人から見るといやでも眩しく見えるのでそこはご容赦いただきたい。

しかし、実際の彼らに触れて見ると、「高水準のスキル」も「感性」もそれを習得する過程に嘘やごまかしはなく、ひたすら良い句、上手い句を作ろうと切磋琢磨しているのを感じた。良くも悪くも当然そこにはドラマが発生するし、俳句甲子園や賞という舞台を通してドラマが引き起こす「感動」によってスキル重視の傾向は俳句甲子園の意図とは違ったレベルで正当化され固定化されてしまっているのではないだろうか。上手さを求める風潮に若い俳人がどの程度近視眼的になっているか、その心の裡までは私にはわからないが、上手さとはある程度習得して損のない技術によって作られる類句類想の一パターンに過ぎないのだ。その点においては久留島元の年の瀬にに多くの示唆が含まれており、また、まとまった文として引用できないのが残念だが高校俳句の文法を理解しつつ引いて見ることのできる風見奨真や、俳句甲子園に対して批判的な眼を向けることのできる八鍬爽風など高校生の側からの反応に見るべきものがあることは付け加えておく。

さて、もともとは冒頭三句の鑑賞を一ヶ月ほど前から書こう書こうと思っていたのだが、先述の「年の瀬に」を読んだことにより前置きが長くなってしまった。そして、いつものスタイル、前置きだけ長くて本題は短い火尖パターンになってしまいそうだが、火尖の長文など読んでどうするのだ。しかしあと少しくらい読んでいったらどうなんだ。という心境だ。

さて、冒頭三句は決してスキルフルというわけではなくむしろ隙がある句と言え、例えば批判しようと思えば、「感情に寄りすぎて景が見えない」、「兄恨めしきと唐辛子が付きすぎではないか」、「恨めしきは切れるのか唐辛子につくのかわからない」「「姉の意地悪を書く」という答を言ってしまっているので広がりがない」などその批判の精度はともかく欠点をあげつらうことは比較的容易であり、全国クラスの高校生の水準からすると堅牢さにやや欠けるように思われる。しかし、そういった従来の堅い句と同様に掲句が選ばれたことにこの賞が一石投じたように感じる。私はこの句に、上手さという価値観とは別の「自分の詩」としての俳句を感じるのである。三原とはもともとTwitter上で付き合いがあり、実は彼自身は相当上手い部類に入る俳人だと思っている。しかし私が彼の句に惹かれるのは技術ではなく彼自身が俳句を「自分の詩」として絶対的に必要としていることが俳句から伺える点にある。言葉を握って離さない強さに惹かれるのだ。

最後に文中で的外れな批難例を出した分、

かき氷弟らしくない自分

について鑑賞して終ろうと思う。

「弟らしくない自分」は屈託した自己への眼差しと、その背後に透けて見える兄姉への充足しない気持ちが見て取れるが、口語の軽やかなリズムを使うことで、却ってそれを素直に表出できない鬱屈を感じさせ、ホースの口を絞るように感情の内圧を高めるという効果がある。

それに対してかき氷は幼少のころの兄弟の記憶を持ちつつも、あまりにも脆い存在として、溶けて崩れて、消えてしまうという宿命を背負わされてしまっている。かき氷は強く残る感情に対して消えてしまう宿命を負うことで季語としての役割を果たすと同時に、作者の孤独を際立たせてしまった。その結果残った痛みを、頭の中で何度も何度も反芻しているのではないだろうか。

彼のつぶやきからはっきりと漏れてくる生きづらさが彼の詩性の背景となっていることは疑いようはないが、その中で生まれる、自身に突き立てるような俳句は、紛れもなく彼だけが持ち得る強さの表れだと思う。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/01(日)03:35

慣性の国

人間の適応力、対応力、忍耐力とは本当に大したもので、どんなに酷い会社であっても働く人がいるし、だんだん生活が苦しくなってもすぐに死んだりすることはないし、今までできていたことや大事にしていたことを捨てても環境の方に合わせてしまえるんですよね。むしろ、それができないと批判の対象になります。

大体の人がすぐに慣れることができるし、やり方さえ間違わなければどんなに環境がひどくても、むしろそれをありがたいとすら思い始める。特に民主政を採ってる社会ではその選択は自分たちが自身に下したものとして社会を規定するので、人間の心理として、間違った選択をしたとは思いたくない。この環境は望んで手に入れたものなのだと思いたいのだと思います。その結果、先程も言いましたが、まだ慣れない人、慣れることができない人、異を唱える人を、敵視し排除しようとする。動物としての本能なのかもしれませんが。

きっかけを作っていじめる。電通を批判した社員を戒告処分にする。有給を取る人の陰口を言う。保育園に落ちた人の問題提起を言葉の問題にすり替える。これらは多分同一線上の出来事で、さらに今起きている政治上の問題にも同じ構図が当てはまるものがたくさんあると思います。

ところで、私は俳句を作っています。人とは違うもの、今までなかったものを作ることで、やっと自分の存在を確かめられるタイプの人間です。新しくできるものは、今までなかったものでないといけないと信じる人間です。俳句でなくて、詩でも短歌でも何か新しいものを作ろうという人は多分そういう人が多いのだと思いますが、本当に新しい詩を作れる人間は、決して、慣れる側の論理に身をおいたりしないということです。正直、大した評論も大きな賞も受賞したことはないですが、「慣れないでいることを恐れない」この一点が、自分の俳人としての可能性を信じる唯一の拠り所であり、自分の信じる強さだったりします。すごい評論がかければそれを自信の拠り所にしたいところではあるのですが、そんなものないしな。

恥ずかしいですけどね、こういうことを書くのは。

でも大事なんですよ。自分にとって。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/12/09(金)20:27

日本語を知らない俳人たち

実は古典文法には自信がない。高校時代の副読本を参照したりグーグル先生に旧仮名チェックや活用、音便の確認をお願いすることも多く、それらがなければ私の俳句活動は極めて不正確なものになるか、いっそ口語でやっていたと思う。

しかし、俳句の短さにおいて、「ゐ」や「ゑ」、言ふ、てふ、などの旧仮名遣いの視覚的効果は有効で、また、季語の効果(過去の詩歌のデータベース的性格)を句の上に構築するには文語旧仮名のフォーマットでもって、過去との連続性を確保するやり方は理にかなっている。この辺は未だにプログラミングが英語をベースになされるのと似ていると思う。

私は古典が苦手であったし、なにより受験勉強が苦手であったから、それこそ高校時代の試験では英語の長文読解とまったく同じ感覚で古典の試験に当たるしかなかった。しかし現文がそこそこ良かったので、ひとまず地方中堅私大レベルには届いていたので、結局苦手は避けてこれ以上古典の文法を覚えようとはしなかった。

むしろ俳句を始めてから文法の副読本を辞書代わりにしている状態だが、基礎がなってないので、やはり十分とは言えない。そんな状況だから、何年か前に話題になった、池田俊二の「日本語を知らない俳人たち」は当時恐る恐る読んだ。間違いがあれば改めようと思ったのだ。しかし、読み進めてみるとどうにも納得できない。特に過去の助動詞「き」の連体形「し」を完了の意味で使うのが誤用だというところなどは、有名句を磔にして文法的に違うと言われても、句の方に魅力があるものだから、どうも言いがかりをつけているようにしか見えなかった。文法の知識も日本語の歴史の知識も乏しかったから、そのときは、「文法的には間違いかもしれないが、音律上のメリットを捨ててまで文法に義理立てする必要はないだろう、まぁこういう批判があることは頭の隅においておこう」と思って、途中で読むのをやめて図書館に返した。著者の批判する日本語を大事にしない俳人で別にいいやと言うのが結論だったが、少し負い目を感じたというか、傷にはなった。

この傷は後年、週刊俳句に掲載された下記反論のシリーズを読むまで消えなかったことを考えると、意外に深かったのだと思う。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/12/blog-post_7.html?m=1

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html?m=1

物理や化学、数学を例にすればわかる通り、高校の枠内で学ぶものは入り口の部分に過ぎない。入り口は大事だが、入り口ですべて片付くということはないのだ。もっとも言葉は変わりゆくものだから、日本語の得てきた豊穣さを捨てて教科書レベルに今後収斂されていくこともないわけではないだろう。できれば、そういった事態は言葉に関わる者としては避けたいところではあるが、言葉が変化していくこと自体は受け入れるしかないとも思う。

もっと勉強していればなぁと相変わらず後悔しているが、何にせよ日本語を知らない~をころっと信じて、したり顔で教科書レベルの知識を披瀝する嫌なおっさんになっていた可能性を避けれた過去の私は、中々冴えていたとその点においては満足している。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/11/17(木)09:34

かなり品のない自意識の空振りについての浅い考察 

浅は尖なり、こんにちは火尖です。
俳句甲子園は今回初めてある程度追うことができて
とても満足しています。
特に、家政学院の話題句については、面白かったですね。
週俳でも取り上げられているし、随所で考察がなされているから
もはや尖が出る幕でもないのだけど、みんな深い所に行ってしまって、
浅瀬の火尖は取り残されてるから、印象論や技術論を中心に
パシャパシャ水遊びする感じです。

さて、その、

利口な睾丸を揺さぶれど桜桃忌

については特に、2016/08/28の週刊俳句、福田若之の
利口であることも睾丸であることも桜桃忌であることも、さくらんぼの形も、
文の構造も、すべてを、太宰の「桜桃」を読み解くことで、
人間の「根底的な悲哀」に迫っていく、迫真の文章だった。
まだ未読のひとは、すぐにでも読みに行くと良い。
そして、別に戻ってこなくていい。

これから、始めるのは知識のない火尖が、
つまり、下品な自意識をぶら下げたある男が受けた恥ずかしさについてだ。
太宰の知識は無くて構わない。桜桃忌が太宰の忌日であるということさえ
知っていれば十分だ。

まず、「利口な睾丸」について、家政学院が試合で先に出した句のなかに、

船員の常に利口や小望月

という句があり、自解で、船員を揶揄したと発言していたので、
男性器に利口などとくっつけられれば、これも揶揄と捉えて
おそらく問題はないだろう。利口についての詳細な評は
週俳で十分語られているため、ここでは割愛する。男女ともに目を引く措辞だが、
特に男性にとっては、当事者だけに、尚更注目してしまうだろう。
「小生意気な女学生(この句の主体としては適切だろう)」に、シンボルかつ急所たる睾丸を揺さぶられるという
想像をした者は静かに手を上げろ。
そこで君たちがどのような感情を持ったかは、今は問わない。
静かに手を当てて今の気持ちを大切にすればそれでいい。
大事なのは、次の「揺さぶれど」で切れていることだと思う。
逆説で切れているので、次に来るのは俳句的な経験でいえば、
おそらく、うんと飛躍させた季語が来るというのがセオリーであり、
もう勘弁してよという、男性陣の願いでもある。
しかし、出てきたのは

「桜桃」忌、さくらんぼである。

逆説でつなぐかに見せかけて、ド直球の急所狙いなのだから、
急所で急所を狙われた会場のどよめきたるや想像に難くない(ちょうど句の発表の時はSara句会に行ってて見れなかったのです)
そのとき具体的に浮かぶ景は、サクランボのような睾丸である。不可避。
そして、ここが、本当に作者の優れたところだと思うのだが、
桜桃と出しておいて、実はサクランボでもなければ、現実のモノですらない、
そう桜桃忌なので、当然忌日で、文豪、太宰治の命日なのだ。睾丸と本来まったく関係ない。
つまり、飛躍と見せかけて直球、と見せかけてセオリー通りの飛躍系季語である。
読者の読みの自意識を自在に利用したはぐらかしに
火尖はまんまと引っかかり、素直にすごく驚かされた。恥ずかしいあけすけな想像をしてしまった。
このような感情の揺さぶりを、句を読む一瞬で三回、
読者を打ち込む凶暴な句を私は急には思いつかない。ないかもしれない。
ボクサーに例えたほうが早いくらいだ。それぐらい面白い句だった。
そして、福田若之の評を読んで、さらに、この句のファンになった。

最後に、かなり品のない体で評を書いてしまって、
作った方に、無用のストレスを与えてしまったとしたら本当に申し訳ない。
しかし、できる限りこの句に驚かされたことを正直に書こうと決めたら
こうするよりほかになかったのだ。
品がないのは火尖の方なのだ。悔やむ他ない。

しかし、俳句に品とかを、むやみやたらと求めたがる奴の心根の方が
正直、つまらないと思うし、この句自体は、とても面白く読めるが、読み手の自意識を抜いて、
俳句表現の歴史や枠で捉えれば、良くも悪くも収まっている句だとは思う。
なので、この句が作者のこれからの人生に必要以上に重石にならず、
作者の青春時代に生まれた、一つの成果として、ちゃんと輝けばよいなと思う。




俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/09/04(日)09:00

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自己弁護

kasen

Author:kasen
1984 11 生まれる。
2005 03 俳句を始める。
2006 01 炎環入会

好きな食べ物・ラーメン
好きな建物・図書館
好きなのは言葉。

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