俳句のOS

明らかに良い句なのに、無季だから俳句じゃないとか、面白いけど切れがないから採れないとかいうときに俳句ってそんなもんなん?って思っていた。

「俳句ではないから」以外にまともな説明ができてないというか、では俳句とは何かとなると、俳句とは発句が独立したもので云々、一句独立の立句で季題を詠んで云々となる。しかしそれは発句の説明ではあるけど俳句の説明ではなくない?俳句とは発句のパッケージデザインを変えただけのものなのか?子規がやったのはその程度の事なのか?という気持ちでいた。実はこの問題は完全に解決済みで、しかし備忘録としてここに引用という形で載せておく。

三橋 大正二年、高浜虚子は、俳句を季題と十七文字の制約の下に置くと限定してしまった。しかし、それは発句であって俳句とは関係ないんです。正岡子規は明治二十八年刊の『俳諧大要』の中で次のように言っています。「俳句には多くの四季の題目を詠ず、四季の題目なきものを雑といふ」。子規は、無季も有季も、また必ずしも五七五でなくていい、全て俳句だと定義しているのです。
中略
定型について言えば、五七五は発句の定型ではあるが、俳句の定型ということで考えるとき、七七五、五七七、三三三調、五五五調、みな日本語の定型だと僕は思っている。

池田 季語なし、五七五なしもみな俳句だとすると「川柳と俳句」という分け方はないわけですね
三橋 そう。同根ですね。「発句と俳句」という分け方がある。その上のこととして「発句は俳句」でもあるわけです。しかし俳句は必ずしも発句とは限らない。英語やドイツ語の俳句も、あれあ俳句であって、発句ではないんです。判りやすいでしょう。
(遠山陽子 (2012年). 評伝三橋敏雄-したたかなるダンディズム-(P605~) 沖積舎)

で、まぁそれだと広がりすぎてしまうので、それをかなり限定的に解釈というか、解釈を大幅に割愛したのが虚子でそこで発句を独立させたもの=俳句の公式が出来てしまった。それはそれで一つの俳句観を形成していて今さら否定できるものではないと三橋も言っていて、どちらかというと私もベースはそのOSを積んでいる。ただし、三橋は続けて近代俳句という歴史でみると子規が提唱したオリジナルに立ち返ることで広がる世界があるというようなことを言っている。
冒頭の問題は、俳句=発句の価値観から起こる仕様上の問題であり、こだわる人は永久にこだわり続けるのだろうが、申し訳ないけど、ゲームのデバッグ係の壁にぶつかり続ける人のようにも思えてしまう。私はOSを切り替えながら世界を広げる方向に眼を向けたいと思う。


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俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/07/01(日)14:51

同人の家

ぎりぎり人々の記憶にあるうちにまとめておかなければならないと思った。

事の発端は、高田獄舎のこのツイート、

田中惣一郎の里四月号に掲載されたぬのーという読み物。
要旨は「佐野波布一」を名乗るアマゾンレビュアーの生立ちを創作したもので、田中本人がこのようなツイートを投稿している。
尚、書き方がややこしいが田中が佐野波本人というわけではない。

佐野波布一の俳句関連のレビューは非常に辛辣なものが多数あり、特にbiwa句会(オルガン)、佐藤文香、小津夜景、関悦史などいわゆる現代俳壇の中でも最も勢いがあると目される者たちに対しては、かなり執拗な批難を展開している。実際のレビューは佐野波布一のサイトで確認できるので、一読はしてきたらいいと思う。
そして佐野波布一の正体が例えば伝統系の結社俳人だったとしても、一応ここでは俳句の門外漢の一レビュアーとして振る舞うことが彼の立ち位置のようだ。そして田中は佐野波のような長文レビューに対しては次のようなツイートで嫌悪を表明している

前置きというか下ごしらえが長くなってしまった。しかし大体料理も評論も下ごしらえさえ済んでしまえばあとの調理は混ぜて焼くとかして大抵すぐ出来上がる。私が言いたいのは、

・田中惣一郎が佐野波布一をどう嫌っていようと、拘っていようと心底どうでもいいのだが、その表明の仕方が論理的な反論ではなく、生立ちを創作するという嫌がらせ的な反応だったことが残念だった。
・「ぬのー」は佐野波布一が菓子を吹き出す下りとか、それを神経質に気にする下りとか、そういう描写でもってキャラクターづけがなされており、クラスの主流派が目障りな奴を貶めるときに癖や言動をからかい囃し立てるいじめに非常によく似ている。(しかもその癖や言動すら田中の捏造という)
・そしてその目的が佐野波布一探しという「お遊び」だという。いじめ加害者のいう「遊んでいただけです」と同様の言い種だと思う。
・フィクションだからといって何を書いてもいいわけではない。取材もせずに他人の生立ちを勝手に創作して、モンスターだアマゾネスだと言っていいとは思えない。物を書く上で当然すぎることだと思うが、しかし大事なことなので都度言っていかねばならないなと今回の件で痛感した。それは趣味だろうと仕事だろうと文章や出版に関わるものが必ず持たねばならない倫理・態度だろう。

次に、これを掲載した里編集部員の意見を全てではないが列挙する。

言いたいのは、里編集部はどうだとか、どうしてほしいとかではなくて、この記事を書いた動機に当たる部分なのだが、結社の同人制でも同人誌でもこの「同人」という感覚はやっかいだなぁということだ。同人とは同じ趣味や志をもった人、仲間、集団ないし共同体のことである(ウィキペディア)のだが、ある意味「他人」の存在しない領域である。そして倫理というのは「本当の他人」がいて初めて成り立つ概念なのではないだろうか。
「同人」が同人の作品を守ろうというのは当然のことで、それがあるから安心して作品を書けるというのはある。ただし作品を守るあまり、多くの同人集団は「倫理」を表現の対立概念としてしか認識できなくなってしまっているのではないだろうか。
表現が「他人」に向けてなされるものである以上、本来は倫理と表現は対立するものではなく、表現が自由であることの担保として当然内在的に備わっていなければならない制限が倫理のはずだ。
同人内で身内が身内同士褒め合ったり、けなし合ったりしても一向に構わないと思う。家にいるようなくつろぎは貴重で内輪だろうと何だろうと価値のあるものだと思う。ただし、同人誌は内輪で固まりつつも、雑誌としては外に向けられたものならば、窓から覗かれるし、ドアから声をかけられるし、そういう家で暮らしているということは自覚するべきだろう。

私は建前をとても大切にしているので、「ぬのー」のようなネタはクローズドな内輪の飲み会ででも披歴すれば良いと思う。

尚、そういうことで外山一機の文章と本件で私のいいたいことは、微妙だが多分かすってはいない。しかしこれきっかけでやっぱ書いとかないといけないなと思ったので参考としてリンクを貼る。



俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/05/28(月)02:14

皆いったいどんなシステムで感情コントロールしてるんだ


気が狂いそうで泣き出した僕がまともなんだよ。

昨日の夜は寝てしまった。一応残業で帰れないなんてことはないんだけど、ものすごく消耗することばかりで、家に帰ると途中でソファや床で寝てしまう。妻はもう諦めて起こさなくなったし、起こされても起きれないので、それでいい。三時とかに起きて布団に向かうんだけど、俳句のイメージを突き詰める力が減衰しているのがわかる。面白いテーマの連作を編もうとしても若い頃は舌頭千転などではとても足りないほど工夫したものだが今はそれすらも有り合わせの型落ちの工夫になってしまい限界を突き破れない。心無い奴はじゃあやめろよと何の臆面もなく言うけど、難しさは人それぞれ違うというのに簡単にそれを口にするような奴という時点で思慮が浅いんだなと思う。
そうはいっても、若手の最近の句の先進ぶりは凄まじいものがある。自分には曲げられない関節をいとも簡単に曲げてしまう。
過去の名作と評価されたものをひたすら取り入れて模倣し今の自分が確立してきたのだけど、そういう工夫は卒業して、次のステップとしては、若手やベテランなどのカテゴリにとらわれずまだ評価されていない次の時代の名作をいち早く見つけ、それを信じて取り入れようと思う。結局模倣には違いないが、評価の定まったものを盲目的に取り入れる段階は過ぎたということが、この十余年の成果かもしれない。たったこれだけの成果かもしれないが、ちゃんと進んでいるし、進んでいるからこそ難しく感じるのだろう。大丈夫。




俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/04/05(木)08:24

俳壇責任

私は普段ほとんど俳壇を意識せずに俳句をつくったり読んだりしてる。結社に所属し、協会や雑誌の依頼に喜び、話題の俳人の消息に聞き耳を立て、そこで起こるあれこれにいちいち意見を表明したりしている。その上で、「俳壇のことはほとんど意識せずやってます」といってしまうのだ。何を言ってるって感じだよね。これはつまり、空気と同じレベルの当たり前のものとして俳壇を受け入れてしまっているのだと思う。俳壇とは何も主宰や総合誌の常連だけのクラブではない。例えば結社の新年会で有名俳人に挨拶をする、それを他の俳人に話したりしてる時点で、俳壇の一部としての私がいる。私がいる場所もまた俳壇であることには間違いないのだ。少なくとも私はそこで泳ぐことができている。

一方、壇というコミュニティは生理的に排除と抑圧の力学によって、選民的な優越感と連帯感を構成員に与えて生き延びてきた。俳句ももちろん例外ではない。むしろ俳句は他の壇以上にその傾向が強い。それは季語という装置があるからではないだろうか。もちろん有季だけが俳句の全てではないが、有り体に言えば、どれほど季語の神秘性を信じられるか知識があるかを構成員同士で比べあって、お互いに信仰をエスカレートしていく信仰の装置としての機能があり、その分他の壇より排他的な傾向が強いのではないかと思う。また、季語に対するトリビアルな知識、例えば「ビールは夏で枝豆は秋の季語」というような知識を符丁として壇は強固になっていくのではないか。あたかも新興宗教の類が一見信じられないようなくだらないアイテムを信仰の対象とすることで、それにどこまでのめり込んで信じられるかが信者同士の競争となり戻ってこれなくなるのに酷似している。

しかし、実はこの稿では季語を否定したいわけではない。私達の拠って立つ俳壇がこのようなシステムで動いていたとしても、それ自体を大所高所から否定するつもりも今はない。何が言いたいかというと、一つのケーススタディを考えてほしい。

俳壇外にいる俳句の友人が、あるとき俳壇の排他性や閉鎖性に人間性を否定されて「でもお前は結局俳壇を信じてるんやろ?」ってあなたに言ってきたときに、どうするか。
私は、友人の人間性を否定したやつについて知らないし、それが俳壇の問題だとしても、寄りかかってくる問題の重さを受け止められない。結局何日か反芻して、ようやく、そこで私が簡単に離脱できてしまったことが、それこそが壇の問題なのではないかと考えた。排他性の恩恵を受け、褒めあって認めあって、あるいは批判しあうことはできても、いざというときは誰もが個人の問題のみに矮小化し、無関係を装える、そんな朧のような存在の暴力性はどうやって制御できるのだろうか。

追記
実際私に加害の実感があるかといえば、それは全くない。それは実感しろという方が無理というものだ。しかしその上で、想像しなければならない。多分そういうことだと思う。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/03/15(木)20:28

結社

昨日取り上げた萌にせよ、うちもそうだけど、結社、結社的同人誌は結局主宰、指導者の影響がすごく大きい。それは、そういうものだからといえばそうだけど、仮に個々の事例を見ていったときにそこに批判すべき点があった場合、結社自身、いやぼかすのはよくないな、結社の構成員にそこを批判するような行動をとる者はあまりにも少ない。

例えば炎環の新年会で、サプライズ的に主宰に感謝し讃える時間が設けられたのも、主宰には確かに感謝してるし、30周年だから讃えられるべきものなのだけどそこに何か歯切れの悪い私自身が存在したのも事実だ。

こないだ群青12月号を取り上げたばかりだが、最近群青2月号の一部を読んでしまって、そして、詳しい関連はわからないが、青本姉妹の群青脱会を目にしてしまったら、たとえ歯切れが悪かろうとも、予定を変更して、次回はそのことについて少し触れる。私は部外者だけど同じように結社組織内の人間だし、有季定型の立場としてもいいたいことはある。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/02/10(土)10:22

昼休みの読書

引き続き群青12月号から

カッターを繰りだす音や天高し  泉山友郁
カチカチカチというあの音、天高しに吸い込まれそうな感じ、悪くない。

葛まるでマスターフゴの息遣ひ  大塚凱
ボビナムもマスターフゴもこの句で初めて知った。この句は葛のわらわらした感じが至近距離での息遣ひを思わせるところがあって、動の前の静を感じる。ボビナム、よくわからんけど。

http://vovinam.jp/about

今年米湯気を押出す湯気が湧く  小野あらた
肉刺しに刺さらぬコーン秋惜しむ  
今度週俳で少し触れるけど、執拗に有季俳句の快の部分を刺激しつづける句だよ。

蕎麦を食ふ人と見まがふ案山子かな  北和田操
ちょっと笑ってしまった。どんなんやねん。それなのに何か案山子らしさを感じる。

テーマ:俳句│ジャンル:小説・文学
俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/02/08(木)12:05

群青12月号

色々なところで本を買ったり貰ったりする。

今までは中々読みきれないから書けないなと思ってたんだけど、これからは、書くということを主眼に置きたいと思っている。

書きながら読むし、書きながら調べる。書くことを読むことより一歩先において読んでいきたい。あまり自然な方法ではないが、今はそれでいいと思う。せっかく頂いた句集や本に何も言わないのではもったいなさすぎるし、書くという目的があったほうが吸収率が上がると思う。


ではさっそく
群青2017年12月号より

鶏頭のまがまがしきに出遭ひけり   櫂未知子
鶏頭の少なからず異様な姿をそのままに、突然、偶然、といった要素を加えることで強化され屹立してくる鶏頭のイメージ

さまざまな道具に埋もれ綿を繰る   佐藤郁良
さまざまな道具が目に入るが、それぞれの名前はわかっているわけではない。これは吟行者と対象の距離感である。そして、その距離感でしか掴めない臨場感をこの句は十分にまとっている。

幹までは濡らさぬ雨か銀木犀   三村凌霄
弱い雨、立ち込める銀木犀の匂い。「雨か」の問いかけが小雨の穏やかな雰囲気に包まれる気分にさせる。

七分袖素早い景色だが残る   宮﨑莉々香
素早い景色といわれて像を結ぶ類の句ではない。しかし景色全体が軌跡化というか残像化するというか、画面の焼付きのようなものになって心に残る。七分袖の動きが素早い景色化するのか、あるいはいかにも中途半端な立ち位置の七分袖という存在が、素早さについていくこともとどまり続けることもできない様子を対比として捉えるか、悩むところである。

コスモスはラケットを押し返さざる   宮田雪大
コスモスの茎の細さ、折れるでもなく刺さるでもなく押し返さないというコスモスの姿態に草花としてのコスモスの強い存在を感じる。ラケットの重すぎない感じも好印象。

木守柿ときに華やぐ物忘れ   山下和子
木守柿は少し象徴的すぎやしないかと思うが、ときに華やぐ物忘れは魅力的な措辞だと思う。

零番線探して秋の中にゐる   山本卓登
零番線がなぜあるかについては、一番線、二番線と並ぶなかで、線路を追加する際、一番線の手前に零番線を作ることで他の番線の呼称を変更しなくても良いなどのメリットがあるようだ。
零番線という不思議な呼称であるにもかかわらずしっかり現実としての役割を果たしているのは面白く、それを探すということが現実、ファンタジーの二重構造的な構成に見える。

新蕎麦や腹に座卓を深く挿し   渡邊有晴
座卓の方を体に近づけて、新蕎麦をすする。ちょっとしたものぐさな所作が独り居の気楽さを表していて気持ちがいい。

紙燃せば支那の匂ひや冬支度   青木ともじ
良い句だと思う。

あをざめた港が夕霧に残る   青本瑞季
港に対して青ざめるというのは結構珍しいのではないか。好き。しかしどの句にも霧が読み込まれていて、多分今回の青本瑞季のテーマなんだろうけど、この句は措辞が珍しいだけに却って「霧に残る」の常套性が少し気になった。


服のまま眠ると鳶の厚みになる   青本柚紀
たまにスーツのまま寝てしまう。イメージの展開が面白い。鳶かぁ鳶もってきたかあ。梟や鳩ではなく、そこが好き。

囮ありかの風蝕のきりぎしに   安里琉太
かりがねや深山の冷えの鑿鉋
猩々は火をひとみの秋として匿す   
嫉妬。

ひとまず一旦ここまで。
おやすみなさい。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/02/07(水)01:21

タバコのflavorがした

私にとってはとても重要なテーマなのできちんと考えを残すことにします。

俳人の政治的な発言について、twitter上で下記の内容のツイートがありました。


俳人は政治的な発言をして欲しくない

政治的なスタンスを持ってほしくない


そもそも他人がどんな考えを持とうと、一向に構わないのです。仮にそれを外に表明したって「私という俳人は政治的な発言をしない」「私は政治的なスタンスを持ちたくない」ならば、イイネを押して承知しましたと思っておしまいです。あれこれ文句をつけるつもりなど本当にないのです。

ただ、今回は「俳人は」となっているので、そこには火尖も含まれているのです。そして、私は一応俳人ですけど、政治に対して俳号のまま発言するし、俳人としての政治的なスタンスを持っています。つまり、政治的なものに対する沈黙を願うこのツイート(思想)が生まれた理由、あるいは当事者の一人といえます。だって、誰も政治的な発言をしなければ、そんな願いも生まれなかったでしょうし。というわけで、このツイートに対して自分の考えを述べる理由が私にはあります。ここまでは一応問題ないはずです。その発言を尊重することと何ら矛盾しません。それに、いつかは書かなければならないことだったと思います。


話を続けます。基本的には人は人を理解することは(できません、と言いたいですが、それはそれで証明したことがないので)簡単ではありません。人のことは最終的には想像するしかないわけです。そこで俳人が政治的な発言をしない方がいい理由を自分なりに考えました。かなり自分的には納得の行く理由で、おそらく少なくない方が俳人は政治的な発言をしない方がいいかもしれないなと思うかもしれません。それはそれで構いません。


もはやあらゆる意味で説明不要の料理漫画「美味しんぼ」にて、ある料理人が海原雄山の美食倶楽部の昇格試験を受ける回があります。その料理人は腕は確かなのですが小心者で、試験中に心を落ち着かせるために煙草を吸ってしまい、課題の料理に臭いが移って雄山を激怒させてしまいます。

おそらく、一連のツイートが指す政治的発言とは、美味しんぼにおける煙草のようなものではないでしょうか。「俳句が不味くなるわっ!!」というわけです。美しい日本料理に煙草の臭いがつくなんて興醒めもいいとこですよね。「俳句とは切り離して考えてよ、手はちゃんと洗ってるもん!」とこちらが言ったところで、雄山からしたら「政治臭い口で俳句を語るな!出ていけ~!!」といったところでしょうか。私も煙草は嫌いなのでよくわかります。

確かに、良い俳句を作る俳人のツイートなりブログなりが、俳句とは全くかけ離れた「アベ政治を許さない」とか「憲法を守ろう」「共謀罪は危険」とかだらけなら、その発言の是非はともかく、単純に冷めるのも無理はないかもしれません。

つまりこの考えに立てば、俳人は余計な夾雑物を持ち込まず俳句に集中するのが良いということですね。これは他のジャンルにも当てはまりそうです。音楽家や俳優、芸術家、舞踏家も同じロジックで政治的な発言を控えるのが良いでしょう。実際フジロックに対する「音楽に政治を持ち込むな」というパワーワードは記憶に新しいかと思いますし、椎名林檎が国の仕事を引き受けたときにも、同じような批判がおきましたっけ。


しかし、本当にそれでいいの?もし、今いる国内外のそういったアーティストたち全員が政治的な発言をしなくなってしまったらどうでしょうか?世の中には今以上に素晴らしい作品が溢れ人々は余計なバイアスを受けることなくそれらを享受できる?本当に?私は正直言って違和感があると思います。仮にそうだとしても、自身の表現活動のほかは、ランチの写真をアップすることぐらいしか話すことのない表現者しかいなくなるなんて、私は嫌ですけどね。


政治だろうと食べ物だろうと、自身の生き方に深く根ざした考えの表明を避けて、ファブリーズをかけるようなことが良いことだとは思いたくないし、だからこそ「他者の政治的発言を望まない」という政治的発言も、誰に遠慮することなく言えばいいと思ってます。

私は、分かり合うことよりむしろ、確かめながら平行線を維持しつづける営みにとても価値を感じている。



超余談

まぁ、正直なところ、平行線だろうと島宇宙社会を越えようとする工夫のある発言でなければ意味がないと思ってるし、ただ、そんなの気にしてる人多いとは言えなくて、いつも申し訳ないなという気持ちはある。彼等は彼等が糾弾している人にこそしっかり聞いてもらわなければならないはずなのに、内輪でぐるぐる回るようなことしかできていない。そんなことで、本当に憎悪と嘲笑の拡散力に対抗できるとでも思っているのだろうか。私は匂うようなユーモアが欲しいよ。




俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/02/03(金)07:04

里1月号を読む3(囚われ者)

そういえば、なぜ私が里を持っているか振れ幅ではまだ触れてなかったですね。


里1月号に天宮風牙さんが火尖小論「囚われ者」を書いてくれて、火尖も旧作15句「偏り」、新作十句「隔たり」を出しているのです。それで手元に里があるのです。そこで自句自解ならぬ、自分自解、たんなる自分語りですが、少し書いてみましょうか。


以前、外山一機さんが書いてくれた小論にあった「西川の句の、良かれ悪しかれ俳句形式に依拠した自らの表現行為の倫理を疑うことのないようなふてぶてしい趣」(敗色のなかに詠う―西川火尖小論―

この一文を読んで、ああそうか、なるほどなぁと思った。これまで何度も触れたが、私は俳句の初学時代、とにかく独学だったので、人の句の型に自分のイメージを流すような練習ばかりしていた。ようは替え歌だ。その上、藤田湘子の20週俳句入門と俳句実作入門をかなりシビアに実践するなど、まぁとにかくこれでもかこれでもかというくらい俳句形式の型にはまることを上達の近道としたのだった。そこに根差した形式への依拠は私の特徴の一つだと思う。実際、風牙さんも「型にはまりながらも型から逸脱しているところ」(「囚われ者」里2017年1月号)と、火尖の俳句の型についての言及がある。そして、型にはまった上で、そこから逸脱しているところが「非凡な魅力」だと言うのだ。もし、そうならとてもうれしいが、いったい私はどうしてこうなってしまったのだろうか。ひとつ心当たりがあるとすれば、というか、そこに答えを求めるしかないのだが、やはり私のこれまでの生き方が影響しているのだと思う。


一番肉体が健康的だったときの仕事は面と向かって人から「底辺」と呼ばれる仕事だった。

周りはリーマンショックのあおりを食らって流れ着いた人が多くて、同期には話の通じる人が多かったが、なるほど、古参の中にははっきり言ってひどい人間もいた。こう言っては申し訳ないが、粗野で野蛮で自堕落な人間たちだ。しかしそれより我々に対する雇い主の扱いの方がひどく、いつしか「早く人間になりたい」が口癖になっていた。そういう職場で三年余り過ごした。ともかく、働かなければ食えないし、卑屈になる以外に耐える方法はなかった。職業で人を侮蔑するというのがどういうことかわかった。せっかく東京に出たのに、ほとんど句会に顔を出さなくなった。適当にごまかして仕事を言うのは辛いし嘘がバレるのは怖かった。世間の目で自分を見ていた。なぜこうなったか。

もともと実家は決して裕福ではないが、私と二人の妹を私大にやれるだけの余裕のある家庭だった(今からすると裕福以外の何ものでもない)。決して学校の科目に拘るような家庭ではなく、教養と思考を何より大切にする家庭だった。実際、妹二人は彼女たちの努力もあろうが、夏期講習程度の塾通いで難関大に入学したのは、思考が鍛えられていた結果といえるだろう。そして一族の多くが生業としている仕事に就いた。私自身、センター試験の一月前に受験勉強を始めて滑り込みで大学に入学できたのは、家庭教育のおかげだとは思う。しかし楽な方へ楽な方へ流れてしまう性格では継続して努力することができなかった。これが致命的で、肝心な時に頑張れない。それでまぁ、前述の「底辺と人から言われる仕事」まで一直線だったというわけだ。一つだけ良かったことは、厳しい環境で思考して初めて広がる類の視野を手に入れたことだろうか。多分、型から逸脱するという部分と、風牙さんの評論中で書かれた「冷静に己の境涯を見つめる」という部分は私の中でイコールで結びついている。


ついでに言うと、これは少し恥ずかしくてあまり公言したくないのだけど、400字エッセイを読めば分かると思うが、全然大したことないことにいちいち大げさにリアクションして、いちいち傷ついてしまうというのが、感受性というか弱さで、もう、モロ俳句に出てしまっていると思う。


そして現在、転職、非正規、正規雇用を経て、そこそこ平穏な生活をしているが、「底辺」で思い知らされた人間のことは、私が私を詠む限り、これからも意味合いを変えながら常に私の中にある。そういう意味でまさしく私は「囚われ者」である。


向日葵に人間のこと全部話す  西川火尖


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/20(金)00:43

里1月号を読む2(いい俳句を読むと焦る)

殴られた方が謝るおでん酒     喪字男

木枯を紙の箱へと仕舞ひけり    喪字男

全員は入りきらない炬燵かな    喪字男


Twitterを始めて知った作者。里だったとは。ここで上げた句の他に「少年のいつも傷つく冬の森」なども出てきて、いや、詠みの振れ幅が大きいとか言いたいんじゃないねん、むしろ一貫してナイーブ。


水仙花右の乳房に右の修羅     渡辺 多佳子

手套は手のかたち手套は手のかたち 野名 紅里

肩までの手袋蓮根掘りに掘る    島田 牙城


右と限定することで、フォーカスを当てたり、リフレインが手のかたちを確かめる動作に呼応していたりとか、畳み掛けのイメージとか、言葉と身体性のつながりが強い。


いやいやをするのでさざんくわがちるよ  水口 佳子

毛糸編む森の暗さの磨硝子        水口 佳子

枯蓮の水から下も枯れている       男波 弘志

放哉が済ませたる死とならぶ鳥      男波 弘志

朝礼の最後に風邪の人が来る       脇坂 拓海


すごいいい。律しながらも自由な俳句。


考えている雪よりも遠い場所    月野 ぽぽな

この重き蒲団隣に母が来る     小林 苑を


作者それぞれの違いがあって、それぞれ自分の作り方を信じるような感じ。

それぞれの俳句を志向するような句が多かった。自分で自分の面倒を見るような、律しながらも自由というか。名の通った若手が多いのも、佐藤文香の影響もあるかもしれないが、それも含めて雑誌の土壌がいいのだろうと思った。


今回取り上げなかったのは、コメントが思いつかなかったからというものもあった。そういうのが、次の俳句だったりするのでよく覚えておこうと思った。


これは、俺も頑張らないと。



俳句の振れ幅 | コメント(2) | トラックバック(0)2017/01/19(木)22:20

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自己弁護

kasen

Author:kasen
1984 11 生まれる。
2005 03 俳句を始める。
2006 01 炎環入会

好きな食べ物・ラーメン
好きな建物・図書館
好きなのは言葉。

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