矜持

私の矜持は常に私にのみ向けられていて、私のみを規定する。

そして、誰にも触れさせない。

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立ち位置 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/25(水)23:21

小さな幸せ

日常の小さな幸せが大切なものであることは否定しないが、「小さな幸せを守れればいい」とか「それこそが大切」とか臆面もなく言い放ち、ささやかな幸福を価値の上位に据えて、現実の諸問題を無視する人間ははっきり言って苦手だ。

そもそも、生きているのだから、ある一瞬は楽しかったり、幸せを感じたりすることは当然ではないだろうか。貧困の中だろうと、北朝鮮などの自由のない国や戦中(それこそ世界の片隅的な)であったとしても、人は笑うことができるだろうし、それは言うなれば、生きるための発汗や鳥肌と同じような身体精神作用である。どんな場所でも生きていかなければならない人間の苦肉の策だ。

それをことさら取り上げて、そこで生きる人々は美しかった、見習わなきゃいけないだとか言い出す人がいたら多分、屠殺前の牛や豚になっても上手くやっていけるタイプなんじゃないだろうか。それが言い過ぎだというなら、漫画などでヤンキーがちょっと優しさを見せれば他のすべての悪事が目に入らなくなるタイプとでも言おうか。

もしそういった人々が社会から幸福が干上がって消えていく中だろうと抗わず最後まで「小さな幸せ」にしがみつくなら、人類の歴史や過ちから学ぶことなどできはしないだろうなと思った。

まったくつくづく嫌な朝しか来ない。


雑感 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/25(水)08:41

里1月号を読む3(囚われ者)

そういえば、なぜ私が里を持っているか振れ幅ではまだ触れてなかったですね。


里1月号に天宮風牙さんが火尖小論「囚われ者」を書いてくれて、火尖も旧作15句「偏り」、新作十句「隔たり」を出しているのです。それで手元に里があるのです。そこで自句自解ならぬ、自分自解、たんなる自分語りですが、少し書いてみましょうか。


以前、外山一機さんが書いてくれた小論にあった「西川の句の、良かれ悪しかれ俳句形式に依拠した自らの表現行為の倫理を疑うことのないようなふてぶてしい趣」(敗色のなかに詠う―西川火尖小論―

この一文を読んで、ああそうか、なるほどなぁと思った。これまで何度も触れたが、私は俳句の初学時代、とにかく独学だったので、人の句の型に自分のイメージを流すような練習ばかりしていた。ようは替え歌だ。その上、藤田湘子の20週俳句入門と俳句実作入門をかなりシビアに実践するなど、まぁとにかくこれでもかこれでもかというくらい俳句形式の型にはまることを上達の近道としたのだった。そこに根差した形式への依拠は私の特徴の一つだと思う。実際、風牙さんも「型にはまりながらも型から逸脱しているところ」(「囚われ者」里2017年1月号)と、火尖の俳句の型についての言及がある。そして、型にはまった上で、そこから逸脱しているところが「非凡な魅力」だと言うのだ。もし、そうならとてもうれしいが、いったい私はどうしてこうなってしまったのだろうか。ひとつ心当たりがあるとすれば、というか、そこに答えを求めるしかないのだが、やはり私のこれまでの生き方が影響しているのだと思う。


一番肉体が健康的だったときの仕事は面と向かって人から「底辺」と呼ばれる仕事だった。

周りはリーマンショックのあおりを食らって流れ着いた人が多くて、同期には話の通じる人が多かったが、なるほど、古参の中にははっきり言ってひどい人間もいた。こう言っては申し訳ないが、粗野で野蛮で自堕落な人間たちだ。しかしそれより我々に対する雇い主の扱いの方がひどく、いつしか「早く人間になりたい」が口癖になっていた。そういう職場で三年余り過ごした。ともかく、働かなければ食えないし、卑屈になる以外に耐える方法はなかった。職業で人を侮蔑するというのがどういうことかわかった。せっかく東京に出たのに、ほとんど句会に顔を出さなくなった。適当にごまかして仕事を言うのは辛いし嘘がバレるのは怖かった。世間の目で自分を見ていた。なぜこうなったか。

もともと実家は決して裕福ではないが、私と二人の妹を私大にやれるだけの余裕のある家庭だった(今からすると裕福以外の何ものでもない)。決して学校の科目に拘るような家庭ではなく、教養と思考を何より大切にする家庭だった。実際、妹二人は彼女たちの努力もあろうが、夏期講習程度の塾通いで難関大に入学したのは、思考が鍛えられていた結果といえるだろう。そして一族の多くが生業としている仕事に就いた。私自身、センター試験の一月前に受験勉強を始めて滑り込みで大学に入学できたのは、家庭教育のおかげだとは思う。しかし楽な方へ楽な方へ流れてしまう性格では継続して努力することができなかった。これが致命的で、肝心な時に頑張れない。それでまぁ、前述の「底辺と人から言われる仕事」まで一直線だったというわけだ。一つだけ良かったことは、厳しい環境で思考して初めて広がる類の視野を手に入れたことだろうか。多分、型から逸脱するという部分と、風牙さんの評論中で書かれた「冷静に己の境涯を見つめる」という部分は私の中でイコールで結びついている。


ついでに言うと、これは少し恥ずかしくてあまり公言したくないのだけど、400字エッセイを読めば分かると思うが、全然大したことないことにいちいち大げさにリアクションして、いちいち傷ついてしまうというのが、感受性というか弱さで、もう、モロ俳句に出てしまっていると思う。


そして現在、転職、非正規、正規雇用を経て、そこそこ平穏な生活をしているが、「底辺」で思い知らされた人間のことは、私が私を詠む限り、これからも意味合いを変えながら常に私の中にある。そういう意味でまさしく私は「囚われ者」である。


向日葵に人間のこと全部話す  西川火尖


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/20(金)00:43

里1月号を読む2(いい俳句を読むと焦る)

殴られた方が謝るおでん酒     喪字男

木枯を紙の箱へと仕舞ひけり    喪字男

全員は入りきらない炬燵かな    喪字男


Twitterを始めて知った作者。里だったとは。ここで上げた句の他に「少年のいつも傷つく冬の森」なども出てきて、いや、詠みの振れ幅が大きいとか言いたいんじゃないねん、むしろ一貫してナイーブ。


水仙花右の乳房に右の修羅     渡辺 多佳子

手套は手のかたち手套は手のかたち 野名 紅里

肩までの手袋蓮根掘りに掘る    島田 牙城


右と限定することで、フォーカスを当てたり、リフレインが手のかたちを確かめる動作に呼応していたりとか、畳み掛けのイメージとか、言葉と身体性のつながりが強い。


いやいやをするのでさざんくわがちるよ  水口 佳子

毛糸編む森の暗さの磨硝子        水口 佳子

枯蓮の水から下も枯れている       男波 弘志

放哉が済ませたる死とならぶ鳥      男波 弘志

朝礼の最後に風邪の人が来る       脇坂 拓海


すごいいい。律しながらも自由な俳句。


考えている雪よりも遠い場所    月野 ぽぽな

この重き蒲団隣に母が来る     小林 苑を


作者それぞれの違いがあって、それぞれ自分の作り方を信じるような感じ。

それぞれの俳句を志向するような句が多かった。自分で自分の面倒を見るような、律しながらも自由というか。名の通った若手が多いのも、佐藤文香の影響もあるかもしれないが、それも含めて雑誌の土壌がいいのだろうと思った。


今回取り上げなかったのは、コメントが思いつかなかったからというものもあった。そういうのが、次の俳句だったりするのでよく覚えておこうと思った。


これは、俺も頑張らないと。



俳句の振れ幅 | コメント(2) | トラックバック(0)2017/01/19(木)22:20

里1月号を読む1(俳句読みながら思ったこと言う)

シンプルに好きなことを好きなように書けばいいのだ。


里2017年1月号をいただいた。

さっそく面白かった句や文章をちょっとずつ挙げながら好き勝手書いていこうと思う。


憎みあふ神の御子らが野に遊び  正木 美和

寒菊や現るるとき人は顔     田中 惣一郎

鱈ちりや誰も彼もてんでばらばら 瀬戸 正洋


まず、「野に遊び」「人は顔」「てんでばらばら」最後には作者の好きな方向へ行くような句が多かった。みんなてんでばらばらで面白い。


てつぺんの黄に白菜とわかりけり 天宮 風牙

くらがりを映す水なし龍の玉   堀下 翔

山茶花を嫌と言ふのでそうかとも 樽本 いさお


作者が違っても似たような句が続くことなく、個がしっかりあると思った。上の三句もそれぞれの世界を屹立させてる。


朝刊に重さがありて十二月    塩川 佑子

極月や画鋲の上にセロテープ   内堀 うさ子


ふと気付く感覚や目に留まるものを、「発見!発見!」と騒ぐのではなく、すっと立ち上がるように俳句にする。大声を立てない。


番地からおよそあの辺冬銀河   仲 寒蟬

薬喰寝癖の髪が鬼のやう     仲 寒蟬


「あの辺」で意味が切れるのか切れないのか、私はこれを漏れてるとでも呼びたい。そしてこの句の場合はそれがとても良く働いていると思う。


湯豆腐やすこし直され箸づかひ  美月

寒紅のをんなの肩をひとつかみ  谷口 智行

脚立冷たし五段目に傘引つ提げて 小鳥遊 栄樹

着膨れと着膨れ占いの館     木野 俊子


映像や温度をありありと想像できる。それぞれのワンシーンの構図に作者の神経が行き届いている。


藍色の直垂衾越しに抱く     中山 奈々

冬晴や花のかたちの砂糖菓子   ローストビーフ


夜具の分厚さと湿気、直垂衾では抱きしめてももどかしい

一方、冬晴のこの明るさと措辞の形の美しさ。

実は炎環と比較しながら読んだ。炎環ではあまりこれらの感想が当てはまるものは少ない気がした。

それぞれに良し悪しはあるのかもしれないが、実感として気になった。




俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/17(火)02:11

かぞ句会で山口優夢に会った

さっきの記事、あれな、あの行儀の良さは、葉月さんの週俳の子連れの記事で結構知られたかもしれんくて、びびっちゃって、後半をまるまるカットしたんだ。

後半はほとんど自分のことだけのいつも通りのやつだ!


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そして、子連れ句会の話とは少しずれますが、かぞ句会で山口優夢、江渡華子両氏に初めて会いましたよ!ていうか優夢さん「振れ幅」読んでたし。ぺこにゃんのこと知ってたし。私はこれまで同世代の俳人とは極端に交流が少なくて、どれくらい交流がないかというと中山奈々と同じ大学なのに在学中ほとんど話さなかったくらい人付き合いのない人間でしたし、当時同志社にいた久留島元が同世代だと知ったのも東京に下ってからでしたし、そんな私が他の若手のことをどう見てたか、当時、人から底辺と呼ばれる仕事をしてて、羨望と嫉妬と、仲良くしてみたいけど、何かライバル、いや、ライバルはちょっと活躍中の相手に悪いし、ていうか自分なんか相手にされへんやろなぁ、敵、ああ、もう敵でいいわ、全員敵視、どうせ会うような機会もないし!敵愾心でがんばる。作品とか散文はめっちゃ一方的に読むからお前らのことめっちゃ詳しいからな!特に山口優夢は一緒に週俳の作品デビュー(だったはず)やし、毎週どこかで何かしら書いてたし、火星の研究者やし、新聞社やし、どっちやねん残像かよ。とまぁ、こんな有様でして、ひどいな真実って。

 

今は私は私のやることがあるので、人と比べてどうというのは、ポーズとしてとって見せることはあるけど、結構収まってきて、ようやく「賞をきっかけに始めた俳句」が抜けつつあるのかなというところなんですが、ともかく、まぁそんな折ですよ。彼に会えたのは。ラインを交換したんですが、人付き合いがあまりうまくないのは相変わらずなので何を送っていいかわからない。でも四回目の子連れ句会のお知らせは送ろうと思います。


優夢さんは、まぁ、想像通りの人当たりの良さでしたよ。知ってたねんな、そういう人だろうというのは。


何より、火尖は書いてこれなので、話せば底が浅すぎてすぐに会話が詰まるので、それを取り繕うことばかり考えて基本誰にも会いたくないのですが、去年あたりからできるだけいろんな人とあって、吸収して面白人間になれたらいいなと思ってるのでみんな我慢して手伝ってください。

かぞ句会、無点やったねんな。それも含めていい句会でした。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/14(土)19:28

「子連れ」と「かぞ句」

少し間が空いてしまったのでそんなに詳しいことはかけないけど、

10月30日、三回目の子連れ句会がありました。

題は「食べ物」、大人は6名くらい?子供はいっぱい。

子連れ句会については、名前の通りですから説明不要だとは思いますが改めて言うと、子育てで俳句から離れた俳人や、子育てをきっかけに俳句に興味をもった人が、子供を連れて気兼ねなくできる句会のことです。

子供は子供同士遊んでもらって、大人は大人同士句会です。みんな子連れで来てるか、サポートで参加してもらってるので、途中騒がしくても退出しなくていいので助かります。

最近は現俳協の青年部主催で同様の趣旨の「かぞ句会」も始まって、今度は別のところ主催で歌会もあるらしくて、子連れ前提の句会があればいいなぁと想像してたころからすると、ちょっと変化がすごくて、どうなってるんだと思いますが、よくよく考えると、「子供連れてきて句会やろう」というだけなので、何も難しいことはないのです。やろう、子連れ句会!

ちなみにかぞ句会は、スピカの三人が中心になって、企画して、息子は紗希さんからりんごをもらって大喜びでした。あと、ついにあの俳人と初めて会いました。夫婦での参加もあって、かなり良い感じでしたよ。

ここまで書くとなんだかとってもいいことだらけのような気がしますが、三回目の子連れ句会とかぞ句会に参加して、何個か留意点があって、今後新しく子連れ句会を企画する人の参考になるかもしれませんので書いておきます。


・公民館の和室は比較的危険なものはないですが、かくれんぼを始めたり鬼ごっこを始めたりするので、ぶつからないように気を付けたり、けがをしないように気を付けないといけません。


・できるだけ広い部屋を取りましょう。


・大人は多いほうが助かります。第三回は葉月さんと、てふこさんに来てもらいました。ありがとうございました!


書いてみると当たり前ですが、句会への注意力は落としてでも、子供の動向は気にかけて安全確保が第一です。年長の子が小さい子と一緒に遊んでくれたりして、だんだん仲良くなってくの見ると連れてきてよかったなと思います。特にうちの子は休日仲良く遊べるお友達がいないので本当に助かります。

そして、小学生くらいになると、結構しっかりした句を出してきます。その前も四歳の子のビビッドな俳句に驚かされましたが、かなり面白い会になってます。

第四回は二月二十五日を予定しています。興味のある方はご連絡ください。

タイトルで言う割には内容に触れられなかったな。次回は熱いうちに記事にします。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/14(土)18:29

神奈川大学全国高校生俳句大賞最優秀賞について

兄面の兄恨めしき唐辛子

日記買う姉の意地悪書くために

かき氷弟らしくない自分   三原瑛心

これらは昨年発表された第19回神奈川大学全国高校生俳句大賞の最優秀5作品のうちの一つである。単発の賞としては高校生俳人の注目度の高い賞と言えよう。掲句に書かれているのは、兄姉に対する負の感情、自身の屈託を痛いほどストレートに詠った作者自身の姿である。

俳句甲子園未経験の私が抱く一般的な高校生俳人のステレオタイプを考えるとすると、それは、高水準の俳句スキルと感性を武器に攻守両面において立ち回りの効く句を発表し、ディベートも的確、俳句甲子園を勝ち上がってウェーイというもので、最後は幾分やっかみも入ったが、大人俳人から見るといやでも眩しく見えるのでそこはご容赦いただきたい。

しかし、実際の彼らに触れて見ると、「高水準のスキル」も「感性」もそれを習得する過程に嘘やごまかしはなく、ひたすら良い句、上手い句を作ろうと切磋琢磨しているのを感じた。良くも悪くも当然そこにはドラマが発生するし、俳句甲子園や賞という舞台を通してドラマが引き起こす「感動」によってスキル重視の傾向は俳句甲子園の意図とは違ったレベルで正当化され固定化されてしまっているのではないだろうか。上手さを求める風潮に若い俳人がどの程度近視眼的になっているか、その心の裡までは私にはわからないが、上手さとはある程度習得して損のない技術によって作られる類句類想の一パターンに過ぎないのだ。その点においては久留島元の年の瀬にに多くの示唆が含まれており、また、まとまった文として引用できないのが残念だが高校俳句の文法を理解しつつ引いて見ることのできる風見奨真や、俳句甲子園に対して批判的な眼を向けることのできる八鍬爽風など高校生の側からの反応に見るべきものがあることは付け加えておく。

さて、もともとは冒頭三句の鑑賞を一ヶ月ほど前から書こう書こうと思っていたのだが、先述の「年の瀬に」を読んだことにより前置きが長くなってしまった。そして、いつものスタイル、前置きだけ長くて本題は短い火尖パターンになってしまいそうだが、火尖の長文など読んでどうするのだ。しかしあと少しくらい読んでいったらどうなんだ。という心境だ。

さて、冒頭三句は決してスキルフルというわけではなくむしろ隙がある句と言え、例えば批判しようと思えば、「感情に寄りすぎて景が見えない」、「兄恨めしきと唐辛子が付きすぎではないか」、「恨めしきは切れるのか唐辛子につくのかわからない」「「姉の意地悪を書く」という答を言ってしまっているので広がりがない」などその批判の精度はともかく欠点をあげつらうことは比較的容易であり、全国クラスの高校生の水準からすると堅牢さにやや欠けるように思われる。しかし、そういった従来の堅い句と同様に掲句が選ばれたことにこの賞が一石投じたように感じる。私はこの句に、上手さという価値観とは別の「自分の詩」としての俳句を感じるのである。三原とはもともとTwitter上で付き合いがあり、実は彼自身は相当上手い部類に入る俳人だと思っている。しかし私が彼の句に惹かれるのは技術ではなく彼自身が俳句を「自分の詩」として絶対的に必要としていることが俳句から伺える点にある。言葉を握って離さない強さに惹かれるのだ。

最後に文中で的外れな批難例を出した分、

かき氷弟らしくない自分

について鑑賞して終ろうと思う。

「弟らしくない自分」は屈託した自己への眼差しと、その背後に透けて見える兄姉への充足しない気持ちが見て取れるが、口語の軽やかなリズムを使うことで、却ってそれを素直に表出できない鬱屈を感じさせ、ホースの口を絞るように感情の内圧を高めるという効果がある。

それに対してかき氷は幼少のころの兄弟の記憶を持ちつつも、あまりにも脆い存在として、溶けて崩れて、消えてしまうという宿命を背負わされてしまっている。かき氷は強く残る感情に対して消えてしまう宿命を負うことで季語としての役割を果たすと同時に、作者の孤独を際立たせてしまった。その結果残った痛みを、頭の中で何度も何度も反芻しているのではないだろうか。

彼のつぶやきからはっきりと漏れてくる生きづらさが彼の詩性の背景となっていることは疑いようはないが、その中で生まれる、自身に突き立てるような俳句は、紛れもなく彼だけが持ち得る強さの表れだと思う。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/01(日)03:35

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自己弁護

kasen

Author:kasen
1984 11 生まれる。
2005 03 俳句を始める。
2006 01 炎環入会

好きな食べ物・ラーメン
好きな建物・図書館
好きなのは言葉。

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