続・綿菓子日記1

山笑ふペットボトルのラベル剥く

去年スピカで連載した綿菓子日記は、私と彼女の出来事を中心に思いつくままに書きちらかしていったのだが、中には掲載を見送ったエピソードもある。あれから一年たって、当時のテキストを引っ張り出して見ていたら、ちょっとだけお蔵入りした話を思い出しながら新しく書き足したくなった。

深夜テンションの恐ろしさはなぜお蔵入りにしたかという肝心なところを忘れさせる。目が醒めて正気を取り戻した!!ちょっと恥ずかし過ぎるので引っ込めます。

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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/03/23(金)01:53

ほへーほへー

ちょっと備忘録的に、あまり立ち入った話はなしで。
西山ゆりこさん発起人のピクニック句会に行ってきた。
ダンススタジオでごろごろしながらやる、子供連れOK、おもちゃ持ち込みOK、ペンだけもって参加という句会だ。私も子供におもちゃを持たせて、あとは本当に俳句に関連のあるものはペンだけで参加した。好き勝手にフロアを走り回ったりする子供たちの声に負けないようにポータブルのマイクを持ち込んだりと、なるほどなるほど、子連れ句会にも取り入れたいなと思わせる工夫があった。あと子供の年齢層が低いので、久しぶりに1歳児とか8か月さんとかを見ることができた。小さい。
句会の方は、さすがに私が同年代で句会やってみたいと思う人たち大集合だったので、みんな慣れたもので、ゆりこさんの回しも的確で、みんなの選句と評のリレーが面白かった。ほへーほへーと何度もうなった。最後は記念撮影をしてお終い。二回目があればまた行きたい。
悔まれるのが、生駒さんに最初気付かなくて、気付いてからはずっと、「気付かなかった。ほへーほへー天気さんに似てるけど若すぎるし、だれかと思った」みたいな話しかしてなくて、向こうも最終的には「いや、お前ちょっとは俳句の話せえよっ!」って思ったかもしれない。
私は、あれだな、文章の中ではそれなりに面白いとか期待されることはたまにあるんだけど、会えば大抵がっかりさせちゃうのがな、致命的なトークの筋の悪さ。それをな結構気にしてる。がっかり火尖。
でも面白かった。


未分類 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/03/22(木)02:05

俳壇責任

私は普段ほとんど俳壇を意識せずに俳句をつくったり読んだりしてる。結社に所属し、協会や雑誌の依頼に喜び、話題の俳人の消息に聞き耳を立て、そこで起こるあれこれにいちいち意見を表明したりしている。その上で、「俳壇のことはほとんど意識せずやってます」といってしまうのだ。何を言ってるって感じだよね。これはつまり、空気と同じレベルの当たり前のものとして俳壇を受け入れてしまっているのだと思う。俳壇とは何も主宰や総合誌の常連だけのクラブではない。例えば結社の新年会で有名俳人に挨拶をする、それを他の俳人に話したりしてる時点で、俳壇の一部としての私がいる。私がいる場所もまた俳壇であることには間違いないのだ。少なくとも私はそこで泳ぐことができている。

一方、壇というコミュニティは生理的に排除と抑圧の力学によって、選民的な優越感と連帯感を構成員に与えて生き延びてきた。俳句ももちろん例外ではない。むしろ俳句は他の壇以上にその傾向が強い。それは季語という装置があるからではないだろうか。もちろん有季だけが俳句の全てではないが、有り体に言えば、どれほど季語の神秘性を信じられるか知識があるかを構成員同士で比べあって、お互いに信仰をエスカレートしていく信仰の装置としての機能があり、その分他の壇より排他的な傾向が強いのではないかと思う。また、季語に対するトリビアルな知識、例えば「ビールは夏で枝豆は秋の季語」というような知識を符丁として壇は強固になっていくのではないか。あたかも新興宗教の類が一見信じられないようなくだらないアイテムを信仰の対象とすることで、それにどこまでのめり込んで信じられるかが信者同士の競争となり戻ってこれなくなるのに酷似している。

しかし、実はこの稿では季語を否定したいわけではない。私達の拠って立つ俳壇がこのようなシステムで動いていたとしても、それ自体を大所高所から否定するつもりも今はない。何が言いたいかというと、一つのケーススタディを考えてほしい。

俳壇外にいる俳句の友人が、あるとき俳壇の排他性や閉鎖性に人間性を否定されて「でもお前は結局俳壇を信じてるんやろ?」ってあなたに言ってきたときに、どうするか。
私は、友人の人間性を否定したやつについて知らないし、それが俳壇の問題だとしても、寄りかかってくる問題の重さを受け止められない。結局何日か反芻して、ようやく、そこで私が簡単に離脱できてしまったことが、それこそが壇の問題なのではないかと考えた。排他性の恩恵を受け、褒めあって認めあって、あるいは批判しあうことはできても、いざというときは誰もが個人の問題のみに矮小化し、無関係を装える、そんな朧のような存在の暴力性はどうやって制御できるのだろうか。

追記
実際私に加害の実感があるかといえば、それは全くない。それは実感しろという方が無理というものだ。しかしその上で、想像しなければならない。多分そういうことだと思う。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/03/15(木)20:28

切れについて

実体験の範囲で言わせてもらうと「切れ」に対する理解をかなり狭くして使っている人は多いと思う。炎環もその傾向がある。つまり、「や」で切ったりすると意味上でも絶対に切れているという判断が機械的になされてしまい作句上・鑑賞上の可能性を潰してしまっていることがある。

たまに上五の名詞の切れだけでもそういう処理をする人たちがいるが、それだと句中に切れのある句はみんなニ物衝撃になってしまうのだが、それはいくらなんでもおかしいし、おかしいと気づいてくれよ。切字を使っていても音だけを切っている場合と意味ごと切る場合とそもそも切れていない場合とがある。
例えば、
夕立や殺生石のあたりより 正岡子規
意味で切ると意味が分からない。

蟷螂や二つ向きあふ石の上 正岡子規
これも二つ向き合っているのは蟷螂であり、やを使う一物仕立ての例。

反対に取り合わせとしては、ぱっと思いつくのが有名な句になっちゃうけど
秋風や模様の違ふ皿二つ 原石鼎

人によってはそんな当たり前のこと今さらと思うかもしれないが、初学時代に十二音技法なんかが骨身にしみたまま成長しちゃうと意外とありえるから、ちょっと書いておこうと思った。


未分類 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/03/12(月)01:29

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自己弁護

kasen

Author:kasen
1984 11 生まれる。
2005 03 俳句を始める。
2006 01 炎環入会

好きな食べ物・ラーメン
好きな建物・図書館
好きなのは言葉。

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