クラスの主流派が非主流派や目障りな奴を貶めるときに、相手が主流派でないことを攻撃の口実にするやり方と似ている。

最近思うのが、人格攻撃と「強い批判」の線引きが曖昧な人にとっては強い批判≒人格攻撃や所属組織への攻撃になってしまうのだなと思った。読んでもらえばわかる通り私が何かを批判するときは、人ではなく発言を批判するようにしているのだが、その辺の微妙な違いを読み取ってくれる人ばかりではないということはもう少し気に留めておいた方がいいかもしれない。反対に私も、相手の発言ではなく、相手そのものを批判したり否定することに意義を感じてるような人がいることが分かったので、相手の発言にそういう雰囲気を感じたら相手にしないように気をつけようと思う。


最近、すごく嫌なことがあって、とてもイライラしているし内輪ノリというものに失望している。彼らとは一緒に笑うことができないということを、まざまざと思い知らされた。
そういうこともあって、あまり安定した心持ではないのでTwitterで諍いを起こしてしまった。バランスを欠いていたと思う。
話を戻して、俳壇の内輪で固まって行われるいじめ遊びは、特に俳壇外にその矛先が向いたときは止める者がおらず、より自制の効かないものになるのかもしれない。理論や議論で刺しにいくのではなく、クラスの主流派が非主流派や目障りな奴を貶めるときに、相手が主流派でないことを攻撃の口実にするやり方と似ている。それがあまりにも自然に行われるため、その醜悪さや恥ずかしさを訴えても周りの理解を得られない絶望感がある。
理由のないいじめなどないとうことを、いじめる側は最大限利用して、自らの正当性としているようだが、それにしても、周りで見ていて且つ状況を理解している人はそれを疑問に思わないのだろうか。

2018/05/19追記
ウェブで公開されたようなので、この文章のきっかけのリンクを貼る。




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未分類 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/04/21(土)00:48

新しい映像が記憶のように加わること

去年立ち上がった金沢大学俳句会から会誌「凪」が届いた。去年できたばかりの会だが、精力的に活動し、無事凪の第二号が発行されたようである。

凪二号、『なぜ、俳句なのか』若林哲哉と丸田洋渡の対談より

丸田「たしかに。実際に感じるのとはまた趣の違う、感じられるということ。聞いていて思ったのは、俳句には『思い出させる』力があるのかもしれませんね。記憶や経験を文字によって引き出す。」
若林「きっと、それも、俳句が『切り取る』ものだからだと思うんですよね。〈泪して仰げば夏の星に蘂/正木ゆう子〉『羽羽』なんかは、良い例だと思います。どこかで経験しているのだけど、忘れてしまっていること。そういうことたちを、ああ、あれってそういうことだったんだ、と思い出させてくれるのが俳句ですね」

ここで、二人は俳句によって経験が呼び起こされることについて語っている。この二人の主張は特別なものではない。まとまった数の俳句を読んだものならほとんどの人が経験している感覚ではないだろうか。俳句が意味内容を伝えることを得意とする形式ではないことは、その短さで説明できるし、切れによる空白や省略による余白を読者自身に補わせようとするのは(もちろんそうではない切れや省略はあるが)つまり俳句は伝える形式ではなく、読者の中にある様々なイメージを整え、それらを使ってイメージを構成するための設計図として捉えたほうが俳句の特徴をうまく言い表しているように思う。二人の対談はこれから俳句を始めようと思う者に向けられたものだが、はじめにそこについて意識を向けるのは、いわゆる名句についてあれこれ語るよりもずっと意義があると思う。

凪二号の中からいくつか引く
春の山裏側は見ていないけど  岩田怜武
はるさめをぱくぱくたべるにしきごい  坂野良太
鶴引いて毛根鞘をしごき取る  敷島燈
春日傘 意識高い系のポーズ  ツナ子
薄雪やつひに足あとのざわめき 姫草尚巳
きよらなり枯蟷螂の胸筋は  若林哲哉

これらの句の中にも、例えば毛根鞘の句に、机に向かってはいるものの、受験勉強などではなく髪の毛を抜くことに熱中して、抜いた毛の毛根でノートに貼り付けたり、白い透明な鞘をこそぎ取ったりしてただただ無為の時間を過ごしていた記憶が思い出される()「鶴引いて」が言い訳のようにアンニュイで面白い。また、「きよらなり枯蟷螂の胸筋は」、「はるさめをぱくぱくたべるにしきごい」蟷螂の胸筋や、雨に口を開く錦鯉などはまじまじと見た記憶はないのだが、これらはまるで思い出すような感覚で映像を思い描くことができる。俳句のほうが思い出すという行為より、ずっと深く脳に刺さって記憶を引っ張ってくるということだろう。蟷螂はそのリズムの良さで、にしきごいは平仮名書きで幼い記憶に直結するのかもしれない。
あるいは、もっと踏み込んで言ってしまえば、読者の体験したイメージの断片を俳句という設計図によって組み合わせることで、今まで体験したことのないイメージ映像がまるで記憶のように現れることも可能なのだと思う。「春日傘 意識高い系のポーズ」はこの句で分かち書きを持ってきてしまうのが、まさに「意識高い系」という構成になっていて、脳内の記憶がそれに沿うようにモンタージュされ、見たこともないのに、少し鼻持ちならない気取った様子がイメージされて面白い。

金沢大学俳句会メンバーそれぞれの表情のよくでたいい雑誌だと思った。


書評 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/04/13(金)12:52

むじなメモ

むじなの座談会を読んで震災詠から考えていたら随分時間が経ってしまった。短くまとめることはできないけど、しかし長々と書いても遠ざかるようで難しい。いくつかの断片的な感想を以て、自分自身のヒントとしたい。



神野紗希という人選は良かったと思う。俳句2011年5月号の被災地への励ましの一句という依頼に対し、「良心的拒否」と迷った上での、神野紗希の身辺詠は、被災地以外の人間があの時点で俳句を通してどうするのか、励ましと言われておそらく多くの人が戸惑いと割り切れない気持ちを覚えたと思うが、その戸惑いにきちんと正対したものだったと思う。

暁鴉・睡魔・マイクロシーベルト   神野紗希
「詩歌の力」という語の乱用を避けたい。本当の詩歌の力は、何も言わなくても、しずかで深いところで、変わらずはたらくと思っている。(俳句2011年5月号)

その神野紗希が震災詠について、その場にいなくても、そこにいるかのような句になればと言っていたことに注目した。それは装えばいいであるとか、上手く詠めばいいであるとかとは全くの別物である。
私達には想像することは許されていて、その許しに対してこちらが差し出せるものが、「その場にいるかのように詠む」なのではないだろうか(要検証)

あとは、むじなメンバーそれぞれの主に震災詠が詠めなかった、詠まなかった理由について、東北と一口に言っても被害程度が地域によって全然異なるという点、短歌と俳句の違い、より影響を受けた被災者に読まれるという迷いなどが挙げられていた。もちろん、被災地だから、被災地に近いからという理由で震災を詠まなければならないなんて馬鹿な話はなく、しかしだからこそ、詠むには自身の中に確固たる理由がいる。あるいは、現実に入り込んで固定化してしまった震災の傷や傷跡までもを、自然として認める俳句の眼によって、結果として震災詠になるということはあるだろう。

むじな作品の中では
唯一、直接的に震災とつながるものを詠んだのは

蠅生る除染袋を押し退けて   一関なつみ

だった。

通勤中で今日はむじなが手元になく、不十分、未消化な点はあったが、思い出しながら書くということで、出てくるものが知りたかった。


未分類 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/04/13(金)08:18

皆いったいどんなシステムで感情コントロールしてるんだ


気が狂いそうで泣き出した僕がまともなんだよ。

昨日の夜は寝てしまった。一応残業で帰れないなんてことはないんだけど、ものすごく消耗することばかりで、家に帰ると途中でソファや床で寝てしまう。妻はもう諦めて起こさなくなったし、起こされても起きれないので、それでいい。三時とかに起きて布団に向かうんだけど、俳句のイメージを突き詰める力が減衰しているのがわかる。面白いテーマの連作を編もうとしても若い頃は舌頭千転などではとても足りないほど工夫したものだが今はそれすらも有り合わせの型落ちの工夫になってしまい限界を突き破れない。心無い奴はじゃあやめろよと何の臆面もなく言うけど、難しさは人それぞれ違うというのに簡単にそれを口にするような奴という時点で思慮が浅いんだなと思う。
そうはいっても、若手の最近の句の先進ぶりは凄まじいものがある。自分には曲げられない関節をいとも簡単に曲げてしまう。
過去の名作と評価されたものをひたすら取り入れて模倣し今の自分が確立してきたのだけど、そういう工夫は卒業して、次のステップとしては、若手やベテランなどのカテゴリにとらわれずまだ評価されていない次の時代の名作をいち早く見つけ、それを信じて取り入れようと思う。結局模倣には違いないが、評価の定まったものを盲目的に取り入れる段階は過ぎたということが、この十余年の成果かもしれない。たったこれだけの成果かもしれないが、ちゃんと進んでいるし、進んでいるからこそ難しく感じるのだろう。大丈夫。




俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/04/05(木)08:24

続・綿菓子日記2

片耳のイヤホン花見疲れかな

学生時代に入っていたサークルのホームページを久しぶりに検索したが、閉鎖されていてコンテンツが全て削除されていた。そこには俳句を始める前の私の日記とも詩ともつかない短文が掲載されていたのだが、今調べるとウェブサービスごと終了してしまったようだ。CGIBOYの日記のススメというのだが、ご存知の方はいるのだろうか。ほとんど内容については覚えていないが、友人が早く更新しろというくらいだったから、ちょっとは面白かったのかもしれない。それがだんだん法職課程の講座に時間を取られるようになって、ほとんどサークルには近づかなくなった。法職課程とは一応法曹を志す人向けに司法試験予備校の伊藤塾と提携した講座なんだけど、民事訴訟法あたりで挫折してしまって、ついていけなくなった。
そして、サークル関係で生まれた他大学との付き合いも、勉強へのやる気も失くしてしまったところにやってきたのが俳句だった。当時はサークルでの渾名をそのまま俳号として使っていた。89、ヤクでもバグでもなくバクと読むんだけど、なぜそんな名がついたかは思い出せない。多分ささいなきっかけなのだろうけど、前述のサークルの日記は89日記というタイトルだったから、それなりに気に入っていたんだと思う。氷床が消えてしまうみたいに忘れそうになっていた。


綿菓子日記 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/04/04(水)02:08

むじなを読む(途中食レポみたいになりそうになる)

去年の文フリで東北若手俳人集「むじな」を購入した。

作品集ではなく俳人集となっているところも特徴のひとつだろう。
巻頭言で触れている「大学がそれほど多くない東北では、すぐに会いに行ける距離に切磋琢磨できる若手が大勢いる、とうわけにはいきません」という現実に対して、東北にゆかりのある若手が横断的に集まるむじなという場はひとつの答えになるだろうと思う。

内容は東北在住作家作品、東北出身作家作品、対談(ゲスト神野紗希)、寄稿、句会紹介、作家紹介などなど、100ページの中にぎっしり詰まっている。表紙はむじなの題と2017という西暦のみ、裏表紙には田、果樹園、荒地の地図記号のみとシンプルでセンスのいい作りになっている。

作品はまず、東北在住作家から
涼風
ゆつたりと回る潮の香扇風機  浅川芳直
匂いとは濃淡があってより強く感じるものだろう、そして南国のそれではなく東北の夏という濃淡がより強く潮の香を意識させる。そこにおおらかな人工物である扇風機のゆったりとした首振りがほどよく溶け合う。

今週も泣かなかったよ冷蔵庫  岩瀬花恵
全体を通してパーソナルな句がならぶ。特に掲句は、つぶやく相手がもちろん人ではなく、ぬいぐるみなどの甘々のものではなく、四角の冷蔵庫であるところが面白い。殺風景な部屋に低いかすかな音で唸る冷蔵庫、部屋に在るものの中では唯一人に近い大きさなのだろう。冷蔵庫の灯りは優しいと思う。

臘燭になる
中指で混ぜる二色のかき氷  うにがわえりも
恋愛や性愛を意識させる句が並ぶ中、この句もその慣性のなかで読まれることを想定しつつ、かき氷の冷たさが、「これはあくまでもかき氷ですよ」と変にブレーキをかけてきて悩ましい。かき氷は混ぜると汚くなるし、溶けてベトベトになる。

灰色の文字は濡れているように見える
暗がりに浴びて藤とはそのけはひ  紆夜曲雪
連作全体の流麗な調べ、旧仮名の曲線をかなり意識して見せていると思った。その中でも掲句は、藤の気配を藤の本質であると示し、それを旧仮名によって見える化した。音と視覚の調べが意味以上に感覚に訴えかけてくる。

偶蹄類
秋風のしみる靴底金欠ぞ  及川真梨子
金欠に対するやや常套的でストレートな感慨に、この句を即き過ぎの句としてしまい、正しく評価し得ない人もいるかもしれないが、それはもったいない。ぞの係助詞の強い踏み込みが、靴底の冷たい実感として迫る。

ヤム
ねずみ花火きらいわたしに似ているし  工藤玲音
若者の自嘲であるが、ほとんどi音で構成された本作の口ざわりの良さはなんだろうか。特に最後の「いるし」に口語ならではの魅力がぎゅつと詰まっていて、口にした瞬間から連なりながらほろほろとこぼれていく。口が舌が勝手に動かされてしまう。なんか食レポみたいになってきたぞやばい。

トム・ヤム・クンと名付けし金魚ヤムが死ぬ 工藤玲音
本来縁もゆかりもないタイの代表的な料理になぞられて、全く関係のない三匹の金魚に名前がついた。そのうちの一匹が死に、名前の完全性が削がれてしまった。そのある意味、身勝手すぎるがゆえの淋しさを負わされる残りの金魚だが、金魚たち自身は一切そのことに関与し得ない。私の記憶で類似のものを辿ると、好きだった女の子に一度も好きだと言えないまま気付かれないまま離れてしまった記憶に行き当たるのだけど、真面目な話、そういうことだと思う。

街いろいろ
春雨や橋に結ばれしスカーフ  佐々木萌 
春雨のやわらかな質感と雨ざらしになるスカーフの垂れ下がりよう。誰かが見かねて、放っておくでもなく、かと言って届けるでもなく、橋に結わえて、持ち主の来るに任せたのだろう。この距離感、この距離感が作中に心地よく通底している

雲の峰
会話なく揺れる座席の登山帽  佐々木もなみ
安心感のただよう会話のなさだと思う。連作の流れからして列車の座席だろうか。座席に登山帽をかぶった人たちが話すのでもなく、ただ駅につくのを待っている。静かなのではなく、おそらく列車や風の音などが気持ちを充実させているのだ。

縁―えにし―
春の宵集ひ始むるフットサル  漣波瑠斗
本当に何ということのない句ではあるが、ぽろぽろと一人一人、あるいは連れ立って、春の宵の薄青い街の中をラフな格好でフットサルをしに集まるのは、とてもいい時間だと思う。

すかすか
車両基地すかすか雨の七月の  佐藤廉
じっと、観察をしていても何も起きない基地にただただ雨が一定の調子で降り続いていく。線路の引かれた建物の暗い入り口や窓から中ががらんどうであることがうかがい知れる。

アンサンブル
風鈴や金平糖の売り場より  天満森夫
いかにも涼しげな様子で、金平糖の店舗ではなく売り場なのだから、催物の即席の売り場だと思いたい。その売り場の誂えに風鈴を吊り下げたのだが思った以上によく通る音がなったのではないだろうか。そのさまを素早くスケッチした力みのなさがある。

著我の花
花筵鳩は宇宙を見通す目  浜松鯊月
もっとも身近な鳥である鳩は宇宙を見通す目であるというこの句、おそらく「鳩の宇宙を見通す目」という意味で取るべきかもしれないが、鳩はとすることで少しスケールが増したように思う。確かに小さく硬そうな鳩の赤い目は慣れ親しんだ人間や哺乳類の目とは異質だ。

全句を通して読んで、東北という共通項でくくられた作者陣ではあるが、わかりやすい東北やみちのくっぽさはほとんどなくて、等身大の詠みぶりの句が多かったように思う。しかし後の対談で神野紗希が自然と人間のボーダーレスが東北の句に感じられるというのだが、その視点から見ると「花林檎みづかがみへと日の手触る 紆夜曲雪」「虹を潜るにふさわしきレンタカー 工藤玲音」のように、人の営みにも自然の営みにも同じスタンスでアクセスしようとしている句が確かにいくつかあり、それぞれに土地の気配がバックグラウンドで走っているように思う。産土(この言葉を使うにはまだ私は理解が足りないが)は当たり障りのない「東北らしさ」に現れるのではなく、作者独自の表現として出現するのだと思う。

次回は対談について、その後、東北出身作家について書けたら書く。そう言って書けたことは稀である。


俳句 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/04/01(日)23:18

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自己弁護

kasen

Author:kasen
1984 11 生まれる。
2005 03 俳句を始める。
2006 01 炎環入会

好きな食べ物・ラーメン
好きな建物・図書館
好きなのは言葉。

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