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俳人は俳句が読めないのかと言われて言い返せなかった話(再掲)

本件につきまして、友人の発言(趣旨含む)とプライバシーに関わる部分の削除依頼があり、私もそれが必要だと判断したため、該当箇所をすべて削除致しました。(2018/11/03 03:55)

再掲します。理由としてはひとまず(2018/11/03 03:55削除)や堀下さんと(2018/11/03 03:55削除)
いくつかの議論が起きた元の記事であるため、いくつか注釈をつけた上で参照できる状態を維持しておいた方がいいと思ったこと。その注釈の方向性がようやくでたことなどです。

まず、全部が全部そうではないですが、私自身はあまり難しいことが書けるタイプではなくて、割としっかり感情に訴えかける書き方をしています。その上でそれを、「良いもの」にするために、余計な一言を言わないように見直したり、対象を相手ではなく相手の「発言」に絞ったり、「この条件の場合には」というような留保や制限をかけて、言いたいことは言うけれど、相手自体を傷つけることのないように、こちらが調子に乗りすぎて不要な反撃を喰らわないように、すでに同じことを述べている人がいないか探すなど注意してきました。おそらく、そのおかげで、これまで反響があったものはほとんど好意的な反応でやってこれました。ほそぼそとですけど。基本的には発表前によく絞ることでリスクを減らして、主張をはっきりさせてきたのです。
で、結論からいうと今回はそこの部分が全然徹底できていなかったわけです。「そんな表面的な」と思うかもしれませんが、アウトプットする前にデバッグできていなかったというのが、今回色々と問題の起きた直接の原因になると思います。ちなみになぜそういう状態になってしまったかの細かい経緯までは、ここで話すつもりはありません。それは堀下さんと(2018/11/03 03:55削除)だと思いますし。

とにかく、その結果、次のようなことが起こりました。
・紹介と言ったにもかかわらず、実際は友人の読みを私の書き方でなぞったもので、その過程で挑発的な部分にのみ目が行ったまま文章にしてしまった
・そのため文章に現われた友人像は本来の友人とは離れた姿になった
・私の文体による文章と混ざってしまい、友人と私の線引きがなくなってしまった
・梅の句など私で読み切れないものは、分からないまま意味が通らないまま投げてしまった
・三島さんが淑気の句についてコメント欄で同じシチュエーションの読みをしていて、それに堀下さんが答えるというやりとりを見逃していた。

それらは通常であれば、そのままではボツというか、せめて書きながらブラッシュアップして、それなりに読める物にして公開するのですが、そうならなかったのは私がその句をちゃんと読めていなかったため、私自身の主張を通すという欲求が足りなかったのかもしれません。全体的にすごく軽率でした。

友人の発言にかこつけて堀下さんを批判したかったのではないかという疑問に対しては、堀下さんも私も基本的には議論を拒むタイプではないので、批判したいのであれば、そんな回りくどいことをせずに直接言います。同様に、匿名の友人がそもそも架空のものではないのかという疑問についても、そのような回りくどいことをする意味がありません。

問題の記事が文理解釈を低く見ているという批判については、それは、そんなことはないとしかいいようがない。文理解釈は大事。ボールも太陽も球やし、文理解釈上太陽という解釈に無理はない。そして「に」の解釈については、まず、「淑気満つ球と接する一点に」の「淑気満つ」は倒置法で、戻せば「球と接する一点に淑気満つ」となる。「○○に淑気満つ」という形は作例が多数あり、その「に」自体に無理があるわけではない。問題は「○○」に淑気が満ちるだけの面積や体積があるかだと思う。確かに点というと概念に面積は存在しない(らしい)ので点に淑気が満ちるのはおかしいとなるが、しかし現実世界での点は概念ではないので僅かでも面積があり、その大きな太陽が地平へ出る際の極小の一点(の面積)「に」「淑気満つ」というのが断然面白いのだと思う。それを文理解釈を低く見ているというのは違うだろうし、それでもいうならそれはもう読みの幅の問題ではないかな。

(2018/11/03 03:55削除)については、一部、「主語がでかい」とかいう人がいるけれど、その批判にどれだけの意義があるかは疑問です。もちろん自分に即した範囲だけで話すことは楽だし、間違いはないし、誠実そのものだけれど、他人に向けられた「主語がでかい」には「空気読め」的な周りを黙らせる力がありはしないだろうか。失敗することはあるかもしれないが、大きな主語で語ることで見えるものもあるだろうと思う。もちろん、そこにあるより大きなリスクや弊害に十分注意する必要はあると思うが。

本文中でも「この一件だけで、(2018/11/02 03:55削除)が証明されたとは思わないし、(2018/11/03 03:55削除)と書いた通り、これだけですぐ判断が固まるものではないし、対象も私が読めなかったとまず書いたうえで、そこから拡大する場合も「読みを軽んじる俳人」に限定している。そしてその俳人に私はもちろん含まれる。その証拠に最後も自分の問題として読みを恐れている。それを無視してなされる「火尖は自分の問題をすり替えて俳人全体の問題にした」という批判は無理筋すぎて答えようがない。「火尖は自分も含む、俳句の読みを軽んじる俳人を批判した」なら分かるし、それにならこれから満足のいく読みができるように頑張ると答える。

良くも悪くも、俳句の世界は評価の弾力性が低いので、この一件で、これまで私のやってきたことや言ってきたことが全て否定されるということはないし、今回のことを教訓にこれからなるべく良い文章を書くことで回復していけると思う。もちろん堀下さんの評価がこの一件で下がるということもないだろう。ただしかし、(2018/11/03 03:55削除)

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話題の句集岡田一実の「記憶における沼とその他の在処」の堀下翔の書評について、(2018/11/03 03:55削除)
堀下翔は
淑気満つ球と接する一点に 岡田一実
を評して、「高く上がった何かのスポーツのボールだけが空にある気持ちのよい絵面はたしかに「淑気」につきづきしくはあるが、「一点に満つ」ということはあるだろうか。「に」というのは、いみじくも句中にある通り一点を指示する格助詞である。「満つ」とはそぐわないのではないだろうか。「一点より満つ」(満ちてゆく)というのなら理解できるが。」と述べた。
しかし、(2018/11/03 03:55削除)一点に満ちたエネルギーという意味では、宇宙創生のビッグバン現象をも背景に潜ませて、新年の始まりを祝いでいると言えるかもしれない。なにより「一点に満つ」と言い留めることによって、ものの始まるギリギリのその瞬間の状態を表現しており、それはこの日の出という現象だからこそ成立する、この句のために考え抜かれた表現であると言えよう。一方、堀下のいう「一点より満つ」は字義上は正当であり、対象がボールなどであればいいかもしれないが、天体のスケールでやってしまうと空気がぬけていくような弛んだ感じがしてこの句には合わないと思う。

その他にも(2018/11/03 03:55削除)漢詩には詳しくないがぐぐると確かに杜甫に浮海の詩はあるようである。

(2018/11/03 03:55削除)
この一件だけで、「俳人は俳句が読めない」が証明されたとは思わないし、(2018/11/03 03:55削除)とにかく私は淑気の句にここまで深く入って読み取ることはしなかった。なんとなく空の天球そのものの一点というピンボケの読みをして明後日の方向を眺めていたのだ。なんということだ。どこかで読みを軽くみていたのではないか。そしてこのような事例はこの一件にとどまらないだろう。まったく、「ゆめ溺るな」とは読みを軽んじる俳人全員がかみしめるべき言葉ではないか。読者は必ずもっと全力で読んでいるし、俳人の読みも厳しく見られているのだ。

これから読んで書くことが少し怖くなった。
直近でいえば凪後半評は今まで以上に出し切ったものを書かねばならない。

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俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/10/25(木)01:24

私の俳句を支えているもの

もしこれが事実だとすると恐ろしいことだが、


昨日はっきりと気づいたことがある。記憶力が鈍ってきている。
小説や漫画の登場人物を思い出せない、歌の歌詞が出てこない、直喩の句というような条件をつけて俳句を思い出せない。
これまで俳句の不調は、作句意欲と現実の重苦しい問題の不一致が原因だと思っていたが、それがテクニック面にまで影響を及ぼすとはやはり考えにくくて、つまり、記憶力の低下によって、私の俳句を作る脳内のフィールドが極端に狭くなってきたのではないか。
同時に、既存の俳句とのネットワークが弱くなって、作った句の可否判断に迷いが生じているのだと思う。それに、措辞の組み合わせや言い回しなどは既存の名句やこれまで読んだ句に無意識に頼っていたのであって、その輸入量や備蓄量が激減した今、生産量もあげられず出来上がりが恐ろしくつまらないことになっている。
それならそれで、輸入に頼らずオリジナリティを出して真に自分自身の表現をというのは、恐ろしく甘い考えで、脳内を照らす懐中電灯の灯りが弱くなってしまっていて、近くのものしか見えない状態でそれだけで作るオリジナリティがいいわけないだろう。

記憶力を抜きにしては、
陽炎へるまで視聴機を再生す
向日葵に人間のこと全部話す
混信の無線が冬と言うてゐる
のような句は生まれなかった。
記憶力というのは何もパクることだけに使うものではない。
自分の句を俳句記憶に照らして、新しいかどうか、今までにない感覚があるか
即座に判断できるのである。覚えているだけでは意味がなくて、その適切な
記憶の呼出と速度が自分の句を支えていたのだ。

記憶力の低下の原因に心当たりがある。
寝不足である。できなかったり書けなかったりするから、結構無茶して
二時間とか三時間睡眠+通勤睡眠で済ませてきた。悪循環!
しかし寝ると創作時間が確保できないし、早寝早起きして朝書きはやってみたが、全然できないし、しかし言うてる場合じゃない。

七時間睡眠の確保(10時寝5時起き)
10時寝のための家事の効率化
だらだら時間のうち不要な時間のカット
通勤書斎の実現
記憶の把握と補修、定着検索トレーニング
なるべくたくさん書く。
よく読む。昔のように一読して記憶というのは無理ならよく読んで何度も思い出すようにする。
思い出しながら書く。
下手な句でも発表する。
がんばるぞ!
と、まぁ、しっかり八時間寝たところ、記憶力はともかくモチベーションと危機感は戻ってきたようである。


雑感 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/10/15(月)07:39

We made you

ルター:「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える」

リンゴ:「嫌や、無理。やめて」

という想像を妊娠検査薬の陽性反応を見せられたときにしないではなかった。
あるいは、吉野弘の「I was born」
しかし、胎児はすくすくそだち、生まれて尚もすくすく育ち、
今やそこに、というか初めから、私の意思は関係なく、自ら育つ別の人間。
では生まれる前の子に、「嫌や、無理。やめて」といわれたとして、
私たちは中絶を選べたか、もしくは生で中出しの誘惑を拒否できたか。
「しかしちょっと寂しいね」という妻と幸せでいつづけることを選べたか。
選べたかもしれない。選べたかもしれないが、
もしリンゴの木を植えるルターの言葉に続きがあれば、
「たとえリンゴがどうなろうとも」
ではないだろうか。
私たち二人は子供のことを純粋に一切考えることなく、人類のほとんど終点にこの子を作った。
その悔恨を持つだけの覚悟など少しもなく、その瞬間は「生まれてきたお前がどうなってもいい」と決断した。
「I was born」と「We made you」の間には絶対的な隔たりがある。
私たちが作った全く新しい別の人間。


雑感 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/10/14(日)10:21

航路予測-金沢大学俳句会誌「凪」を読む

私が俳句を始めたのは大学生の頃で、しかしその頃は、学生の俳句会を作ろうなどという行動はついに起きなかった。想像はちょっとはしたけどネットから結社というルートだった。
だから知己の若林哲哉が金沢大学俳句会を立ち上げて、仲間を集めて、句会を開いて、彼らが会誌「凪」を発行してというのを結構眩しく思いつつ眺めていた。
創刊メンバーは、若林哲哉、ツナ子、敷島燈、坂野良太、姫草尚巳の五人。第二号ではそこに岩田怜武(さとむ)が加わる。第三号ではさらに北條壮紀(そうき)、他に新入生が二名加わり総勢9名となる。新入生の作品はおそらく次号となるだろう。それも楽しみである。
今回は第三号の句を読みながら、既存メンバーは過去の句にも触れながらどのような変化の最中にあるか見ていこうと思う。 

頬杖の耳朶  岩田怜武 
麺類のレーンに並び直せ夏
街は夜空いたビールの缶を積む
まずは掲句ニ句に注目した。カフェテリア方式の食堂で、カウンターで麺類を頼もうとしたら、「並び直せ」と言われてしまって…という感じだろうか。並び直すという徒労に命令形の勢いでやるせなさに迫られている印象が生まれた。そこに唐突に夏と付くことで、その感覚がぐっと圧されて濃くなったように思う。その感覚は次の句にも通じている。「街は夜」という広い賑わいの景に対して、空缶を積むという、行先不明のやるせなさが面白い。ちなみに第二号初登場時にも「春の山裏側は見ていないけど」「新年の抱負いわされそうになる」を発表した作者。この微妙な屈託が彼のベースにあるのだろう。それに加え、第三号では表題句の「頬杖の耳朶のかすかに涼しかり」の俳句に慣れた表現も見られるようになった。この句自体は、まだこなれているという以上のものではないが、彼の「行先不明のやるせなさ」のまま、表現が洗練されていくと中々面白くなっていきそうである。作者は変化の只中にいる。

きづき  坂野良太
ほのかなる手に残る香の夏祭り
浮いてくるゴム人形の歪み顔
ストレートな句が並ぶ。夏祭りの句はデートの句だろうか。ゴム人形の句はストレートな表現がうまく活きた。ゴム人形もそうだが今回の発表作の中の「洗い髪なびかせ走る吾走る」「ザリガニを吊り上げる糸切れる音」など上五中七で述べた内容に下五でもう一押しする作り方が多くみられた。その中で、ゴム人形は下五に説得力のある意外性があり面白いと感じた。若林哲哉に声をかけられ俳句を始めた作者であるが、第二号の「はるさめをぱくぱくたべるにしきごい」の単純さ、分かりやすさをベースに「歪み顔」のような意外性を素知らぬ顔でさしこんでくるとぐっと面白さが増すように思う。

振り返って立夏  敷島燈
春雷を聞いて八秒の留守電
嘘つくまで舌磨きして春時雨
一句目、元となった事実はどうあれ、八秒と分かるのは吹き込む側より、留守電を聞く側だろう。留守電のリストの表示に8秒と出ていたのだと思う。これが吹き込む側であるならば、画面に表示される時間は留守電のアナウンスも含まれるので1分前後になるだろう。ここまでは理屈の話。「春雷を聞いて」とあるが留守電を聞いたかどうかは明記されていない。私は留守電を聞いていないととった、春雷という何かしら予感を感じさせる季語に8秒だけのメッセージ。重要なメッセージかもしれないが、8秒では複雑な話ではない。「八秒の留守電」とだけ置くことで、聞くか聞かないか一瞬の逡巡が感じられ、それが8秒という短いメッセージに春雷の予感性と釣り合うほどの存在感をもたらした。
二句目、準備を念入りにしなければならないほどの嘘と、嘘をつき終えた後のひりひりとした痛みまで想像させる一句。春時雨の優しさはしかし、すぐに降りやんでしまって、なにか取り返しのつかない変化を与えそうである。
創刊号では「ほんたうのさいはひに死す蜻蛉かな」「夢果てて私だけがみてる蛍」と終わりの景色に思いを馳せていた作者だが、今号では予感や続いていくものに対しての句が多かった。もっとも、それは不可逆的な変化ではなく、作者の描こうとしている世界の広さがあらわれているのだと思う。

このまま夏になるよ  ツナ子
眉毛剃りすぎて短夜許さない
泣かされても同じかたちで昼寝する
世界ということならこの作者の世界の作り込みへのこだわりは中々徹底したものを感じる。テーマとか題材とかそういう統一された話ではなく、あくまでも作者が生んだ俳句のその周辺までも動いて生きているようなという意味で。例えば抽象的な話になるが、私からは普段、他人の世界は暗幕につつまれて見えないが、ツナ子俳句によって、彼女の作った世界に十七音の隙間が生まれ、そこから暗幕の中が覗けるような印象である。沢山の句を読むことで作者の生み出した一つの世界を別々の切れ目から見ているような印象を受ける。
夏痩せの手首がそこを右と言う」「春夕かしこで結ぶラヴ・レター」「八月十五日ラーメン茹ですぎる」(以上創刊号)柏餅の柏かさねる二人暮らし靴下を脱ぎたがるひと春炬燵」などツナ子世界で生きる人の暮らしがそこにあるのである。

当初は、凪創刊の言葉「時に荒れ狂う言葉の海を渡っていくためのバイブルとして「凪」が僕たちを導いてくれることを信じつつ」と、若林哲哉一人からの仲間集めの経緯を絡めて、漫画ワンピースになぞらえて書き始めたのだけど、あまりにもパロディの度合いが高くなりすぎてしまってボツにした。しかし小川軽舟の著作は「現代俳句の海図」であるし、坪内稔典は「船団の会」の代表だし、氏は海賊船の船長で間違いなさそうだし、いつか使いたい案ではあるな。

後半では姫草尚巳、北條壮、若林哲哉について書く。

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書評 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/10/14(日)08:42

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自己弁護

kasen

Author:kasen
1984 11 生まれる。
2005 03 俳句を始める。
2006 01 炎環入会

好きな食べ物・ラーメン
好きな建物・図書館
好きなのは言葉。

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