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俳壇責任

私は普段ほとんど俳壇を意識せずに俳句をつくったり読んだりしてる。結社に所属し、協会や雑誌の依頼に喜び、話題の俳人の消息に聞き耳を立て、そこで起こるあれこれにいちいち意見を表明したりしている。その上で、「俳壇のことはほとんど意識せずやってます」といってしまうのだ。何を言ってるって感じだよね。これはつまり、空気と同じレベルの当たり前のものとして俳壇を受け入れてしまっているのだと思う。俳壇とは何も主宰や総合誌の常連だけのクラブではない。例えば結社の新年会で有名俳人に挨拶をする、それを他の俳人に話したりしてる時点で、俳壇の一部としての私がいる。私がいる場所もまた俳壇であることには間違いないのだ。少なくとも私はそこで泳ぐことができている。

一方、壇というコミュニティは生理的に排除と抑圧の力学によって、選民的な優越感と連帯感を構成員に与えて生き延びてきた。俳句ももちろん例外ではない。むしろ俳句は他の壇以上にその傾向が強い。それは季語という装置があるからではないだろうか。もちろん有季だけが俳句の全てではないが、有り体に言えば、どれほど季語の神秘性を信じられるか知識があるかを構成員同士で比べあって、お互いに信仰をエスカレートしていく信仰の装置としての機能があり、その分他の壇より排他的な傾向が強いのではないかと思う。また、季語に対するトリビアルな知識、例えば「ビールは夏で枝豆は秋の季語」というような知識を符丁として壇は強固になっていくのではないか。あたかも新興宗教の類が一見信じられないようなくだらないアイテムを信仰の対象とすることで、それにどこまでのめり込んで信じられるかが信者同士の競争となり戻ってこれなくなるのに酷似している。

しかし、実はこの稿では季語を否定したいわけではない。私達の拠って立つ俳壇がこのようなシステムで動いていたとしても、それ自体を大所高所から否定するつもりも今はない。何が言いたいかというと、一つのケーススタディを考えてほしい。

俳壇外にいる俳句の友人が、あるとき俳壇の排他性や閉鎖性に人間性を否定されて「でもお前は結局俳壇を信じてるんやろ?」ってあなたに言ってきたときに、どうするか。
私は、友人の人間性を否定したやつについて知らないし、それが俳壇の問題だとしても、寄りかかってくる問題の重さを受け止められない。結局何日か反芻して、ようやく、そこで私が簡単に離脱できてしまったことが、それこそが壇の問題なのではないかと考えた。排他性の恩恵を受け、褒めあって認めあって、あるいは批判しあうことはできても、いざというときは誰もが個人の問題のみに矮小化し、無関係を装える、そんな朧のような存在の暴力性はどうやって制御できるのだろうか。

追記
実際私に加害の実感があるかといえば、それは全くない。それは実感しろという方が無理というものだ。しかしその上で、想像しなければならない。多分そういうことだと思う。

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俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/03/15(木)20:28

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kasen

Author:kasen
1984 11 生まれる。
2005 03 俳句を始める。
2006 01 炎環入会

好きな食べ物・ラーメン
好きな建物・図書館
好きなのは言葉。

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