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俳句のOS

明らかに良い句なのに、無季だから俳句じゃないとか、面白いけど切れがないから採れないとかいうときに俳句ってそんなもんなん?って思っていた。

「俳句ではないから」以外にまともな説明ができてないというか、では俳句とは何かとなると、俳句とは発句が独立したもので云々、一句独立の立句で季題を詠んで云々となる。しかしそれは発句の説明ではあるけど俳句の説明ではなくない?俳句とは発句のパッケージデザインを変えただけのものなのか?子規がやったのはその程度の事なのか?という気持ちでいた。実はこの問題は完全に解決済みで、しかし備忘録としてここに引用という形で載せておく。

三橋 大正二年、高浜虚子は、俳句を季題と十七文字の制約の下に置くと限定してしまった。しかし、それは発句であって俳句とは関係ないんです。正岡子規は明治二十八年刊の『俳諧大要』の中で次のように言っています。「俳句には多くの四季の題目を詠ず、四季の題目なきものを雑といふ」。子規は、無季も有季も、また必ずしも五七五でなくていい、全て俳句だと定義しているのです。
中略
定型について言えば、五七五は発句の定型ではあるが、俳句の定型ということで考えるとき、七七五、五七七、三三三調、五五五調、みな日本語の定型だと僕は思っている。

池田 季語なし、五七五なしもみな俳句だとすると「川柳と俳句」という分け方はないわけですね
三橋 そう。同根ですね。「発句と俳句」という分け方がある。その上のこととして「発句は俳句」でもあるわけです。しかし俳句は必ずしも発句とは限らない。英語やドイツ語の俳句も、あれあ俳句であって、発句ではないんです。判りやすいでしょう。
(遠山陽子 (2012年). 評伝三橋敏雄-したたかなるダンディズム-(P605~) 沖積舎)

で、まぁそれだと広がりすぎてしまうので、それをかなり限定的に解釈というか、解釈を大幅に割愛したのが虚子でそこで発句を独立させたもの=俳句の公式が出来てしまった。それはそれで一つの俳句観を形成していて今さら否定できるものではないと三橋も言っていて、どちらかというと私もベースはそのOSを積んでいる。ただし、三橋は続けて近代俳句という歴史でみると子規が提唱したオリジナルに立ち返ることで広がる世界があるというようなことを言っている。
冒頭の問題は、俳句=発句の価値観から起こる仕様上の問題であり、こだわる人は永久にこだわり続けるのだろうが、申し訳ないけど、ゲームのデバッグ係の壁にぶつかり続ける人のようにも思えてしまう。私はOSを切り替えながら世界を広げる方向に眼を向けたいと思う。


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俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2018/07/01(日)14:51

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kasen

Author:kasen
1984 11 生まれる。
2005 03 俳句を始める。
2006 01 炎環入会

好きな食べ物・ラーメン
好きな建物・図書館
好きなのは言葉。

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