思索派
俳句は手段ではなく目的で、いい俳句を作ることだけを求めるという純粋な立場を取ってきたけど、最近それだけではどうにも自分に対して説明不足を感じる。
平畑静塔は当時18歳の三橋敏雄について「之の少年作家に、早く思想の陰影を與(あた)へよ」「三橋少年よ、うまさの代りにもっと強く深く悲しく俳句を考へて貰ひ度いものです」(京大俳句 昭和14年1月号)と述べている。「俳人格」をとなえる静塔ならではの言葉だと思う。しかしこの言葉を知った当時の二十歳そこそこの私は、「作品が良ければ思想は関係ないやろ。負け惜しみ臭い」とまで思ったのだが、冒頭の悩みを抱える今現在となってはこの言葉を何度も思い出してしまい、無視できないでいる。
詩一般の歴史、詩学の知識に乏しいので、あくまで感覚としてだが、詩人を突き詰めると思想家に、思想家を突き詰めると詩人に近付くのではないか、あるいはもっと単純に詩作とはそのまま思索に通じるのであり、詩人と思想家はその点で同根ではないかという感覚がある。強く深く思索することで、詩作が本人の哲学を強く反映した思想性を帯びることは十分あり得るだろう。静塔が三橋少年に求めたものはそれだったのではないだろうか。
また、漠然と「良い俳句」という結果を求めて行き詰っていた自分にとって、詩作を思索として深めていくことは、今後の自身の俳句を打ち立てていく上での核の部分になるのではないだろうか。良い句という結果を求めるあまり思うような句が作れない私に欠けていたのは、句を作ることそれ自体にまずは価値を見出すことだったのではないか。「思想」というと人を身構えさせてしまうワードであり、そのせいで技術のある若い人が殆ど踏み込んでこない手付かずの宝があるように思う。
二十代のころの私がみたら、何言ってるんだこいつ、やばいわーって思うかもしれないし、今さら句を作ることそのものの価値だなんて言い出して、後退しているだけなのかもしれないが、しばらくはここから見えるものからたっぷり句作に耽っていきたい。