松本恭子私論 序(加筆修正版)→http://syuuu.blog63.fc2.com/blog-entry-157.html
第一句集「檸檬の街で」の松本恭子は「素人」である。
今で言えばブログやケータイで詩や小説を書く女子高生連中と同じようなものだ。
ブランコ漕いで漕いでる 別れなければと
さよならに泣かない約束 ポインセチア
約束は指からはぐれた シクラメン
これらの恋愛句はその素人っぽさが全面に出された句であると言える。
ありていに言えば下手な句なのだ。一句目は上手いこと言ってる感が鼻に付き、二句目、三句目は陳腐。
季語も表面的には適していると言えるが、カップ麺の乾燥葱程度の薬味でしかない。底が浅く一般的、まさしくケータイラブストーリーの特徴と一致する。
しかし、ケータイ小説が100万部売れるように、恭子の俳句も世間的に大いに受けた。「檸檬の街で」は昭和62年7月初版、その後5ヶ月で四版目を発行している。句集としては化け物じみた売れ行きが恭子の俳句外への人気を証明している。だって俳人は句集買わへんもん。
中でも、
恋ふたつ レモンはうまく切れません
は恭子に「俳壇の俵万智」「レモンちゃん」などの綽名がつけられるほど人口に膾炙した句として知られている。
「二つの恋と、レモンの青春性、分かち書き部分のため息のような空白、諦めと共に刃の入るレモンは作者そのものなのだ」と当時の尖は、一気に松本恭子のファンになった。恭子のような恋愛句を作ることが尖の句作の目標となったこともある。
しかし、恭子俳句の本領は恋愛ではなかった。
松本恭子の良さは、既製の言葉の選択、つまりコーディネートの上手さにある。それは「現・俳壇の俵万智」黛まどかにはないものである。
にんげんに動脈・静脈 うすばかげろう
この句をファッションにたとえると、周りとは全く違う服を難なく着こなす相当のオシャレさんやよ、という話。
その傾向は第二句集「夜の鹿」でさらに顕著となる。
続く。
第一句集「檸檬の街で」の松本恭子は「素人」である。
今で言えばブログやケータイで詩や小説を書く女子高生連中と同じようなものだ。
ブランコ漕いで漕いでる 別れなければと
さよならに泣かない約束 ポインセチア
約束は指からはぐれた シクラメン
これらの恋愛句はその素人っぽさが全面に出された句であると言える。
ありていに言えば下手な句なのだ。一句目は上手いこと言ってる感が鼻に付き、二句目、三句目は陳腐。
季語も表面的には適していると言えるが、カップ麺の乾燥葱程度の薬味でしかない。底が浅く一般的、まさしくケータイラブストーリーの特徴と一致する。
しかし、ケータイ小説が100万部売れるように、恭子の俳句も世間的に大いに受けた。「檸檬の街で」は昭和62年7月初版、その後5ヶ月で四版目を発行している。句集としては化け物じみた売れ行きが恭子の俳句外への人気を証明している。だって俳人は句集買わへんもん。
中でも、
恋ふたつ レモンはうまく切れません
は恭子に「俳壇の俵万智」「レモンちゃん」などの綽名がつけられるほど人口に膾炙した句として知られている。
「二つの恋と、レモンの青春性、分かち書き部分のため息のような空白、諦めと共に刃の入るレモンは作者そのものなのだ」と当時の尖は、一気に松本恭子のファンになった。恭子のような恋愛句を作ることが尖の句作の目標となったこともある。
しかし、恭子俳句の本領は恋愛ではなかった。
松本恭子の良さは、既製の言葉の選択、つまりコーディネートの上手さにある。それは「現・俳壇の俵万智」黛まどかにはないものである。
にんげんに動脈・静脈 うすばかげろう
この句をファッションにたとえると、周りとは全く違う服を難なく着こなす相当のオシャレさんやよ、という話。
その傾向は第二句集「夜の鹿」でさらに顕著となる。
続く。


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