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季節外れの机の下の参観日

イラクのときから自己責任が嫌いだった。今は空気も嫌い。
音楽は割りと聞くほうだった。それを意外だと言われることもあった。

情報に疎い、という俺のイメージ。

人が人に持つイメージというのはどの程度、持たれる側の実情に即しているのだろうか。

あまり、本人の実態は重要視されない気がする。もちろん自己がイメージの端緒ではあるのだろうが。
それこそ、ほんの欠片のようなきっかけからイメージが作られ、あとはそのイメージによって更なるイメージが付けられてゆき、結局大部分をイメージでしか語られない、見られないのだとすれば、つまるところ自己責任とは他人の付けたイメージによる自己の圧殺なのだが、肝心の自己の介在している部分が端緒にしか見られないため、包括的な自己責任など、取りようがないのだ。この回収のしきれなさ故に、批判は中々収まりを見せない。

もちろん、人は人をイメージで判断すると仮定した場合の自己責任の話であり、他にも様々な場に自己責任論があるので、これだけでは説明がつかないのだが、どの場合においても自己責任論に晒されるということは、自己以外の圧倒的全てを一人で相手にしなければないので、もとより勝ち目などない。
世界や世間は
一個ドミノを倒しただけで、全部倒れてしまうドミノ倒しではない。だって善意は単発で終るし、俺に世界は変えられないじゃないですか。
世界はドミノ倒しであるはずがないのに、殊、事が人を突き落とす類の話となると、周囲はドミノぎっしりで息もできない。

そんな中では自分も一個のドミノに過ぎないけど、せめて、あるじゃないですか、意外と倒れないドミノも、残っちゃうやつも、それになりたいものです。

最初のドミノを倒した責任は倒したやつにあるだろう。間違いなく。しかし、勝手にドミノワールドに変わってしまった世界まで再建する必要はないと思う。


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