不理解効果

前回、タイトルについては言いたいことをほぼ全て言えたので、このブログのタイトルも徐々に分かりやすくなっていくでしょう。つまり表現と内容のバランスを重視します。

作品の感想において、度々使われる「分かる、分からない」を「許す、許さない」に置き換えると、何が言いたいのか少し「分かる」気がする。
平明であることを尊ぶ(少なくとも尖にはそう見える)現代の俳句世界において、「分からない」と言われる事は、俳句資格の剥奪(かっこ良く言い過ぎた。ようは俳句の門前払い)である。
つまり、
「分からない」とは、その人にとっての俳句フォーマットではないという主張なのだ。それ自体は全く問題ではない。好き嫌いの延長上もしくは、それ自体であり、自然なことだと思う。

ただ、その言葉が観賞や批評に頻繁に使われることは大きな問題であるといえる。
なぜなら「分からない」という言葉は自分の立場の表明であって、目の前の俳句に対しては何ひとつ言えていないからだ。

だからと言って、分かり合わなければならないなんて言うつもりは全くない。そういうのは政治社会の課題であって俳句の深刻なそれではない。もし俳句は相互理解が第一だと考えるなら、俳句は関係者だけでの、共感を得るための記号・暗号としての面が強調されて使われるようになるだろう、それはまさしく、月並俳句そのものではないだろうか。(このことと関係してくるのかは、まだ考えていないけど、俳句をやらない人には一部の俳句以外は上手く読めないという問題も興味がある。)

分からない句は分からないんだから、分からないと言えばいいと思う。ただ、それを観賞や批評だと思ってはいけない。そう、どんなにこの句が分からないかを説明したところで、分かるのは鑑賞者の立場だけである。そんなつまらん観賞があってたまるか。
次回から、分からないことを前提とした観賞、批評の方法を考えてみようと思う。

階段がなくて海鼠の日暮かな   橋間石
天網は冬の菫の匂かな      飯島晴子
山脈に耳あり夜の石礫     夏石番矢

これらの句を分からんからって、はねるわけにはいかんやん?

テーマ : 俳句 - ジャンル : 小説・文学

コメント

コメントの投稿




URL:

Comment:

Pass:

 管理者にだけ表示を許可する