慣性の国

人間の適応力、対応力、忍耐力とは本当に大したもので、どんなに酷い会社であっても働く人がいるし、だんだん生活が苦しくなってもすぐに死んだりすることはないし、今までできていたことや大事にしていたことを捨てても環境の方に合わせてしまえるんですよね。むしろ、それができないと批判の対象になります。

大体の人がすぐに慣れることができるし、やり方さえ間違わなければどんなに環境がひどくても、むしろそれをありがたいとすら思い始める。特に民主政を採ってる社会ではその選択は自分たちが自身に下したものとして社会を規定するので、人間の心理として、間違った選択をしたとは思いたくない。この環境は望んで手に入れたものなのだと思いたいのだと思います。その結果、先程も言いましたが、まだ慣れない人、慣れることができない人、異を唱える人を、敵視し排除しようとする。動物としての本能なのかもしれませんが。

きっかけを作っていじめる。電通を批判した社員を戒告処分にする。有給を取る人の陰口を言う。保育園に落ちた人の問題提起を言葉の問題にすり替える。これらは多分同一線上の出来事で、さらに今起きている政治上の問題にも同じ構図が当てはまるものがたくさんあると思います。

ところで、私は俳句を作っています。人とは違うもの、今までなかったものを作ることで、やっと自分の存在を確かめられるタイプの人間です。新しくできるものは、今までなかったものでないといけないと信じる人間です。俳句でなくて、詩でも短歌でも何か新しいものを作ろうという人は多分そういう人が多いのだと思いますが、本当に新しい詩を作れる人間は、決して、慣れる側の論理に身をおいたりしないということです。正直、大した評論も大きな賞も受賞したことはないですが、「慣れないでいることを恐れない」この一点が、自分の俳人としての可能性を信じる唯一の拠り所であり、自分の信じる強さだったりします。すごい評論がかければそれを自信の拠り所にしたいところではあるのですが、そんなものないしな。

恥ずかしいですけどね、こういうことを書くのは。

でも大事なんですよ。自分にとって。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/12/09(金)20:27

日本語を知らない俳人たち

実は古典文法には自信がない。高校時代の副読本を参照したりグーグル先生に旧仮名チェックや活用、音便の確認をお願いすることも多く、それらがなければ私の俳句活動は極めて不正確なものになるか、いっそ口語でやっていたと思う。

しかし、俳句の短さにおいて、「ゐ」や「ゑ」、言ふ、てふ、などの旧仮名遣いの視覚的効果は有効で、また、季語の効果(過去の詩歌のデータベース的性格)を句の上に構築するには文語旧仮名のフォーマットでもって、過去との連続性を確保するやり方は理にかなっている。この辺は未だにプログラミングが英語をベースになされるのと似ていると思う。

私は古典が苦手であったし、なにより受験勉強が苦手であったから、それこそ高校時代の試験では英語の長文読解とまったく同じ感覚で古典の試験に当たるしかなかった。しかし現文がそこそこ良かったので、ひとまず地方中堅私大レベルには届いていたので、結局苦手は避けてこれ以上古典の文法を覚えようとはしなかった。

むしろ俳句を始めてから文法の副読本を辞書代わりにしている状態だが、基礎がなってないので、やはり十分とは言えない。そんな状況だから、何年か前に話題になった、池田俊二の「日本語を知らない俳人たち」は当時恐る恐る読んだ。間違いがあれば改めようと思ったのだ。しかし、読み進めてみるとどうにも納得できない。特に過去の助動詞「き」の連体形「し」を完了の意味で使うのが誤用だというところなどは、有名句を磔にして文法的に違うと言われても、句の方に魅力があるものだから、どうも言いがかりをつけているようにしか見えなかった。文法の知識も日本語の歴史の知識も乏しかったから、そのときは、「文法的には間違いかもしれないが、音律上のメリットを捨ててまで文法に義理立てする必要はないだろう、まぁこういう批判があることは頭の隅においておこう」と思って、途中で読むのをやめて図書館に返した。著者の批判する日本語を大事にしない俳人で別にいいやと言うのが結論だったが、少し負い目を感じたというか、傷にはなった。

この傷は後年、週刊俳句に掲載された下記反論のシリーズを読むまで消えなかったことを考えると、意外に深かったのだと思う。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/12/blog-post_7.html?m=1

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html?m=1

物理や化学、数学を例にすればわかる通り、高校の枠内で学ぶものは入り口の部分に過ぎない。入り口は大事だが、入り口ですべて片付くということはないのだ。もっとも言葉は変わりゆくものだから、日本語の得てきた豊穣さを捨てて教科書レベルに今後収斂されていくこともないわけではないだろう。できれば、そういった事態は言葉に関わる者としては避けたいところではあるが、言葉が変化していくこと自体は受け入れるしかないとも思う。

もっと勉強していればなぁと相変わらず後悔しているが、何にせよ日本語を知らない~をころっと信じて、したり顔で教科書レベルの知識を披瀝する嫌なおっさんになっていた可能性を避けれた過去の私は、中々冴えていたとその点においては満足している。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/11/17(木)09:34

かなり品のない自意識の空振りについての浅い考察 

浅は尖なり、こんにちは火尖です。
俳句甲子園は今回初めてある程度追うことができて
とても満足しています。
特に、家政学院の話題句については、面白かったですね。
週俳でも取り上げられているし、随所で考察がなされているから
もはや尖が出る幕でもないのだけど、みんな深い所に行ってしまって、
浅瀬の火尖は取り残されてるから、印象論や技術論を中心に
パシャパシャ水遊びする感じです。

さて、その、

利口な睾丸を揺さぶれど桜桃忌

については特に、2016/08/28の週刊俳句、福田若之の
利口であることも睾丸であることも桜桃忌であることも、さくらんぼの形も、
文の構造も、すべてを、太宰の「桜桃」を読み解くことで、
人間の「根底的な悲哀」に迫っていく、迫真の文章だった。
まだ未読のひとは、すぐにでも読みに行くと良い。
そして、別に戻ってこなくていい。

これから、始めるのは知識のない火尖が、
つまり、下品な自意識をぶら下げたある男が受けた恥ずかしさについてだ。
太宰の知識は無くて構わない。桜桃忌が太宰の忌日であるということさえ
知っていれば十分だ。

まず、「利口な睾丸」について、家政学院が試合で先に出した句のなかに、

船員の常に利口や小望月

という句があり、自解で、船員を揶揄したと発言していたので、
男性器に利口などとくっつけられれば、これも揶揄と捉えて
おそらく問題はないだろう。利口についての詳細な評は
週俳で十分語られているため、ここでは割愛する。男女ともに目を引く措辞だが、
特に男性にとっては、当事者だけに、尚更注目してしまうだろう。
「小生意気な女学生(この句の主体としては適切だろう)」に、シンボルかつ急所たる睾丸を揺さぶられるという
想像をした者は静かに手を上げろ。
そこで君たちがどのような感情を持ったかは、今は問わない。
静かに手を当てて今の気持ちを大切にすればそれでいい。
大事なのは、次の「揺さぶれど」で切れていることだと思う。
逆説で切れているので、次に来るのは俳句的な経験でいえば、
おそらく、うんと飛躍させた季語が来るというのがセオリーであり、
もう勘弁してよという、男性陣の願いでもある。
しかし、出てきたのは

「桜桃」忌、さくらんぼである。

逆説でつなぐかに見せかけて、ド直球の急所狙いなのだから、
急所で急所を狙われた会場のどよめきたるや想像に難くない(ちょうど句の発表の時はSara句会に行ってて見れなかったのです)
そのとき具体的に浮かぶ景は、サクランボのような睾丸である。不可避。
そして、ここが、本当に作者の優れたところだと思うのだが、
桜桃と出しておいて、実はサクランボでもなければ、現実のモノですらない、
そう桜桃忌なので、当然忌日で、文豪、太宰治の命日なのだ。睾丸と本来まったく関係ない。
つまり、飛躍と見せかけて直球、と見せかけてセオリー通りの飛躍系季語である。
読者の読みの自意識を自在に利用したはぐらかしに
火尖はまんまと引っかかり、素直にすごく驚かされた。恥ずかしいあけすけな想像をしてしまった。
このような感情の揺さぶりを、句を読む一瞬で三回、
読者を打ち込む凶暴な句を私は急には思いつかない。ないかもしれない。
ボクサーに例えたほうが早いくらいだ。それぐらい面白い句だった。
そして、福田若之の評を読んで、さらに、この句のファンになった。

最後に、かなり品のない体で評を書いてしまって、
作った方に、無用のストレスを与えてしまったとしたら本当に申し訳ない。
しかし、できる限りこの句に驚かされたことを正直に書こうと決めたら
こうするよりほかになかったのだ。
品がないのは火尖の方なのだ。悔やむ他ない。

しかし、俳句に品とかを、むやみやたらと求めたがる奴の心根の方が
正直、つまらないと思うし、この句自体は、とても面白く読めるが、読み手の自意識を抜いて、
俳句表現の歴史や枠で捉えれば、良くも悪くも収まっている句だとは思う。
なので、この句が作者のこれからの人生に必要以上に重石にならず、
作者の青春時代に生まれた、一つの成果として、ちゃんと輝けばよいなと思う。




俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/09/04(日)09:00

俳句プラモデル説

俳句は作る人が圧倒的に多くて、純粋な読者となると極端に少ない。
もちろん調べたわけではないけど、少なくとも、俳句は読むの専門ですって人は
火尖は多分いまだ会ったことがない。
前回の俳句の勉強会、東京俳句では、本筋のトークではないが、俳句で稼ぐにはどうすればという話もした。読者不在の状況では、作品を読んでもらうことで収入を得るのは厳しそうだ。
そうなると当然、とういか実際、人の俳句を読む方がお金になる。
ここまではただの確認。みんなそう思っているし、その状況を変えようと頑張っている人もいるし、もちろん奇跡的に売れる句集だってあるかもしれない。

とまぁ、そんな俳句ではありますが、そんな読者不在の俳句は果たして文芸と言えるのかという疑問がでるのも当然の向きでしょう。だって純粋読者ほぼいないんですよ?
でも今回そこのイエス・ノーには敢えて立ち入りません。しかし、私から言わせれば俳句は文芸よりも多分プラモデルに近いですよ。プラモデル。

初心者でも説明書通りに作ればひとまず形になり、作ったからと言って基本売れるわけでもなく、同じプラモでも作り手のセンスや工夫、見せ方で全く違った作品になり、ごくごく少数ですが、それだけで食べている人間もいる。プラモデルを趣味にしている人で、「作ったことありません、見るの専門です」ってのも極端に少ないんじゃないですか。
大会にはたくさんの作者が集まったり、雑誌や書籍では作り方やハウツーが主なコンテンツってとこまでそっくり。
「俳句は季語を含む五七五定型詩」は、「プラモはキットを購入して組み立てる模型」という風に、すんなり言い換えができますし、無季俳句は市販のキットを使わずに作ったプラスチック模型とでもいいましょうか。自由律は材質に拘らない、ですかね。
極めつけはガンプラですよ。あれはホトトギスです。

そんなプラモデルが普及のために増やすとすればもっと作者を増やすような施策をうつでしょう。作って楽しいというのがやはり一番の魅力でしょうし。それでプラモが先細るとか、多分そんなことはないと思いますよ。
そう考えると俳句も何をどうすればいいか分かった気になってきました。
まずは作者になった上で、その気があれば読者になったらいいんじゃないですかね。読者の数が少なくてもいいんじゃないですか。でも優れた読者になったらお金が入る。作者が読者を大事にする文芸でいいじゃないですか。
句集売れなくてもいいとは言いませんよ、でも今みたいにとりあえず作って、無料で配りまくるなんて止めたらいいと思う。俳句関連書籍のクラウドファンディングサイト作ろうよ。受注生産すればいいやん。すごく読みたい本はお金出して買う。これが誰にとってもいい結果になると思うんですよね。
その中で売れる作者ってのは、ちょっとかっこよすぎるわ。あこがれる。



俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/08/02(火)15:00

子連れ句会二回目やるよ!!

二回目の子連れ句会が近いので、今回のテーマの自分より大きい動物についてちょっと書く。
結構ね、子連れ句会は俳句の新しい角度のイベントになれるかもしれないなあと思ってる。定着してもっと広がればいいなぁ。行こうかなぁって迷ってる人がいたら、おいでって自信を持って言える多分。

適当に、動物の俳句について。
大きい動物ですぐ思い浮かぶのは、飯島晴子の、「月光の象番にならぬかといふ」だけど、よく考えたらこの句は象ではなくて、象番が詠まれた句で、さらに言えば象番よりも、月光の印象について書かれている気がする。でも、いい句だから許して。「ならぬかといふ」のあたりに月光の降りてくる感じがするのだ。
誰が言ったのか忘れてしまったが、良い俳句というのは、狙ったマトのさらにもう一枚向こうに思いがけず届く俳句だという言葉を思い出す。

「恐竜には致死量の憂鬱だつたか」
松本恭子と言えば、「恋二つ レモンはうまく切れません」で名を馳せた俳人だが、どちらかというと私は彼女の等身大の俳句よりも、肥大化した感情を持て余す句に魅力を感じる。
掲句も恐竜という巨大さや鈍さが、却って憂鬱に対する、なす術のなさを強調している。このように巨大な対象を詠むことで、それに降りかかる効果をさらに強調できるというのも大きなものを詠む醍醐味と言えるかもしれない。
同じ作者の「鏡よ鏡人間たちの燃えやすき」も夥しい人間の量というスケールメリットを存分に活かしているように思う。

その他に
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し 寺山修司
桜散るあなたも河馬になりなさい 坪内稔典
生き急ぐ馬のどのゆめも馬 摂津幸彦
秋の馬水にかこまれゐて寧し 大木あまり
遠雷や麒麟の長き舌は濡れ 柿本多映
など、小動物ほどではないが、様々な句が試されている。

そもそも大きい動物を見れるようになったのは動物園の登場によるところが大きいので小動物よりは、歴史が浅いのはもうしょうがない。
見方を変えれば、まだ手垢のついていない領域が残されてるかもしれない。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/07/16(土)00:24

俳句の未来

 さて、佐藤文香については正直なところ現時点では批判すべき点が見当たらない。作品も文章も面白く、俳句を愛していて、俳句で生きていくという強かさも持ち合わせているし、俳句以外の世界にチャネルが開いていて、どう俳句を認めさせるかという点でもかなり意識的に活動していると思う。私にとっては、常に気になる俳人であるし、第一、第二句集も別に買ったりしてないけど、好きな句はたくさんある。
 以前、過去記事のあれやこれやで批判(2009-02-012009-02-012009-02-09)を試みたことがあるが、今や俳句は彼女にほだされてしまったというか、これからの俳句にふさわしい俳人に佐藤がなったというか、そんな印象すらある。前回ブログで書いた虚子、子規の話であるが、後は我々が彼女のフォロワーになりさえすれば、準備OKというわけだ。そのためのチケットとして「俳句を遊べ!」は非常によくできている。これは買った。面白かった。
 実際、佐藤文香が本気で動けば、相対的なものにまで弱まった俳句の価値観のいくつかは一気に確定してしまうだろう。方向性を見失っていた俳句を、子規の唱えた写生のように、あるいは虚子の花鳥諷詠のように導く力がすでにあると見ていい。写生、花鳥諷詠に続く、佐藤の著作頻出の「面白い」という価値観によって俳句は革新されるだろう。もちろんその「面白さ」は「俳句を遊べ!」を読めば分かる通り、画一的なものではなく、様々なものを認める方向に働くので、批判のし辛さという意味でもよくできている。
 おそらく既存の俳壇ともうまく付き合いながらも、佐藤が築く「俳句外部に読者を持つ新しい俳句圏」に人材の多くは集まるようになるだろう。こうなってくると、支持基盤構造がガラリと変わるわけだから現代俳句の続編ではなくて、未来の俳句と呼ぶべきものとなり、名実ともに佐藤文香によって俳句革新が成るというわけである。
 ただし、それによって打ち捨てられてしまうものがあるはずである。それは例えば俳句の「面白くなさ」であり、あるいは「停滞」そのものではないだろうか。虚子没後、俳壇は中心を失い、凪ぎの時代が長らく続いたが、ようやくその時代を所与のものとした若手が台頭し始め、むしろ、凪いだ今だからこそ、「俳句とは何か」「俳句の分からなさ」について余計な夾雑物なしに考えることができるようになってきたと言えるのではないかと思う。停滞しているように見えるときほど、その内部では新しい胎動がみられるというものだ。そしてその動きはまだ始まったばかりである。佐藤文香もあるいはこの停滞から生まれたのかもしれないが、彼女の強い個性が、そういった他の胎動を、例えば「面白く」なければならないと染め上げてしまうのか、どのように扱うか注目したいと思う。

まとまったような、まとまってないような、勢いだけの文章になってしまったが、最後に口直しに、当時すでに彼女に子規を重ねていた記事を紹介して寝る。当時とは状況も違うけど、中々面白いと思う。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/05/30(月)22:53

現代俳句の続編

誰もが思っているかもしれないことは火尖も思うわけで、

要はそれを言うか言わないかだ。
私は凡そ、文章を書くための武器と呼べそうなものは持っていないけれど、
唯一、出来ることと言えば、本来誰でも出来ることしかない。
例えば冒頭にもあるように、言うか言わないかでいえば、言う、もう言ってしまう。
そういう、人のわざわざやらないことをやるという点で、
ぎりぎり俳句の世界に関わりたいとは思う。

前振りが長くなったけど、結局実は今回言いたいのは一言だけで、

子規を神野紗希、虚子を佐藤文香とした
現代俳句の続編がもう始まっているのではないか。
その中で淘汰されるものと称揚されるものの峻別を
再び全ての俳人が受けなければならない、という続編。
そして、それはおそらく選という形をとらず浸透するのではないか。

ここから先を書く力が本当は欲しいのだけど、
それがあれば、そもそもこんなこと書いていないよなぁ。

追記、
Facebookで、佐藤文香子規説が出てるので、佐藤文香は子規兼ねる方向で。確かにそんな気がする。

しかし、神野紗希については、そのフラットさで何か起点のような構造を押さえられている気がする。




俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/05/29(日)16:45

子連れ句会顛末③止メ

被講と選評は、ところどころで休憩を混ぜながら行った。
その間に赤ちゃんを抱っこしたり、覚のおむつを替えたりした。
オタマトーンの演奏も試みてみたし、四ヶ月ちゃん、九ヶ月ちゃんは眠らされようとしていた。
九ヶ月ちゃんは程なくして寝た。

選評について、例えば、俳人同士の句会であれば、つきすぎや、季が動くなどの指摘については、
なんとなく外部に共有のデータベースがあるのを感じながら話が通じるというのがあり、
今回についても自分はそういったことについつい頼ってしまっていて、
それを抜きにしたら自分の評は成り立たないのだなということに気付いた。
そして、やはりそういったものに頼らずに句を読んでやろうという選評に惹かれた。

結さんは、句会も俳句も初めてとは思えないほど、人を納得させる選評だった。
言葉の印象や表記によって受ける印象について句から読み取れるものは全部読み取ろうとしていることが分かった。
歩さんは、もともと詩で活躍している人で、私と選が被った句の評が正反対で、大変刺激を受けた。
「こっちからも光を当てることができるよ」というか、俳句の詩としての見え方を教えてくれたと思う。
感受性を最大限拡げ、何かを俳句から得てやろうという強さがあった。
まどかさんは久しぶりの句会で、私はこの人のいる句会はやはり好きなのだと思った。
裕美さんは子連れの企画当初からずっと賛同してくれて、自分と同じようにこの句会に期待して、
楽しみにしてくれていた。それがとてもありがたかった。
葉月さんは、自分のつたない司会をいろいろ助けてくれた。
また、俳句に染まっていない部分を抜き出しては議論を提供してくれていたことが大きかったと思う。
付き添いで来てくれた隆司さんは、いろんな子の相手をしてくれて、すごく助かった。
もしよかったら俳句も読んでみたいです。

ともすれば、選評を捌いていくと言ったように、やや退屈な句会もあるなかで、
この句会の楽しさは、個人個人の詩質の違いが織りなす、ある種の緊張感によって
成り立ってたように思う。句会の進行自体は超緩めで、中身は濃かった。
帰りは子供たちのちらかしたおもちゃを片付けて、16時すぎごろお開きとなった。

第二回に向けての反省点としては、
・句会場はあの人数でも和室二部屋とっちゃいましょうか。子供の遊びスペース確保できるし。
・次回は当初の企画段階で話していた、子守担当を一人置いてみますか?ちょっとこれはFacebookで相談ですね。

新規の参加者を募りつつ、またこのメンバーでお会い出来ればうれしいです。

あと、やってみたら意外と普通に句会でした。
是非ほかの地域にも広がればいいなと思う。
ノウハウ的なものは偉そうなことが言えるほど貯まっていないけど、
もしよろしければご相談ください。  


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/05/04(水)00:49

子連れ句会顛末②

親子でおいでよというイベントは世の中に沢山あって、その大半は子供のために、子供が楽しめるようにできている。親としてはそれで満足なので、何の文句もないのだけど、しかし、一方で大人だって純粋に楽しいことがしたいのだ。副次的な満足ではなくてさ。 

それが親子句会ではなくて、子連れ句会という名前をつけた理由でもある。子供も楽しめるけど主役はあくまで我々大人っていう、意外とそんな企画ってなくてさ、この句会ではそこを大事にしたい。 
閑話休題、前置きが長くなってしまった。そうそう、プラレールの合間に、四歳お兄ちゃんを中心に、子供達が座布団を配ってくれて、超可愛いから! うちの子もちゃんとお手伝いできた。そしていよいよ、子供達がプラレールで遊び始め、大人はその隙に句会である。 短冊を配り、簡単にルール説明。Facebookに予めルールを書いておいて良かった。初めての二人も混乱はないように見える。うちの子はプラレール大好きだけども、お友達の輪に入るのが苦手で、もんもんとして隅っこにいる。さすがに見かねて、裕美さんが絵本を読み始めたので混ぜてもらう。少し落ち着いたようでよかった。四歳お兄ちゃん三歳お姉ちゃんからレールを分けてもらい、一人遊び開始。葉月さんにお菓子をもらってだんだんペースが出てきたようだ。そんな雰囲気。いつもの句会とは違って、出句までかなり時間をとってのんびり進めたが、子供がいても気兼ねなくって感じで、良かったと思う。 
そうこうしているうちに全30句が出揃い、選句開始である。 句会が始まる前までは経験者に選が寄ってしまうのではないかと、少し心配したが、完全に杞憂だった。以前ブログに書いた通りの新しい句が沢山あって、ここから五句に絞る難しさ!楽しかった、すごく。 書いてて思い出してきて一人で盛り上がってきた。 
 続く



俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/04/28(木)21:47

子連れ句会顛末①

これから子連れ句会がいろんなところでもっと開かれますように。

先週の日曜日、子連れ句会当日。朝からこれぞ春雨というような雨が降っていた。とにかく雨は、外出難易度を跳ね上げるので、あー雨だ、あーあーなどと気を揉んでいたが、程なくして雨は止み、息子の覚をおだてて自転車に乗せ、ぎりぎり間に合うくらいの電車に乗って阿佐ヶ谷に向かった。

元々この句会の発端は、以前、覚と一緒に電車に乗ってるとき周りに迷惑をかけてしまったりして、謝ってるうちに、自分自身がまいっちゃって、尤も、迷惑かけた側がまいってしまうなんて許される空気ではないけど、とにかく子育ては社会では害悪なのだと思い知らされたのだった。
そんなとき子育て世代同士でなら、協力も譲歩もずっとやりやすいだろう、ていうか句会行きたいなどと思っているうちに子連れ句会を思いついたのだった。

さて、会場は和室である。子供連れて来るなら絶対和室がよい。床を這っても安心だし、赤ちゃんは座布団で寝かせられるし、むしろ和室以外では子連れ句会は考えられない。それくらい和室のアドバンテージというのはすごい。今回集まったメンバーを軽く紹介すると、
火尖=私だ、子は二歳
裕美さん=俳人、子は三歳
歩さん=句会初参加、詩人、子は四ヵ月、4歳
結さん=句会初参加、お子さんは今回欠席
まどかさん=俳人、子は九ヵ月
葉月さん=俳人(おじいちゃんポジション)
という個人的には中々バランスの取れている布陣だと思った。
会場には既に全員集まったので、これから初めての子連れ句会が始まるのだけど、
まず初めにしたことと言えば、長机に囲まれた中に子供たちをいれて、
プラレールを設置することだった。

続く


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/04/28(木)00:50

«  | HOME |  »


自己弁護

kasen

Author:kasen
1984 11 生まれる。
2005 03 俳句を始める。
2006 01 炎環入会

好きな食べ物・ラーメン
好きな建物・図書館
好きなのは言葉。

Twitter...A

nishikawaksn17 < > Reload

火尖箱(お知らせ)

12月
現在迷惑コメント対策のためURLなど書き込めない状態になっています。ご迷惑をおかけします。

打率

探検する

探し物はなんですか

月刊火尖

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる