かぞ句会で山口優夢に会った

さっきの記事、あれな、あの行儀の良さは、葉月さんの週俳の子連れの記事で結構知られたかもしれんくて、びびっちゃって、後半をまるまるカットしたんだ。

後半はほとんど自分のことだけのいつも通りのやつだ!


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そして、子連れ句会の話とは少しずれますが、かぞ句会で山口優夢、江渡華子両氏に初めて会いましたよ!ていうか優夢さん「振れ幅」読んでたし。ぺこにゃんのこと知ってたし。私はこれまで同世代の俳人とは極端に交流が少なくて、どれくらい交流がないかというと中山奈々と同じ大学なのに在学中ほとんど話さなかったくらい人付き合いのない人間でしたし、当時同志社にいた久留島元が同世代だと知ったのも東京に下ってからでしたし、そんな私が他の若手のことをどう見てたか、当時、人から底辺と呼ばれる仕事をしてて、羨望と嫉妬と、仲良くしてみたいけど、何かライバル、いや、ライバルはちょっと活躍中の相手に悪いし、ていうか自分なんか相手にされへんやろなぁ、敵、ああ、もう敵でいいわ、全員敵視、どうせ会うような機会もないし!敵愾心でがんばる。作品とか散文はめっちゃ一方的に読むからお前らのことめっちゃ詳しいからな!特に山口優夢は一緒に週俳の作品デビュー(だったはず)やし、毎週どこかで何かしら書いてたし、火星の研究者やし、新聞社やし、どっちやねん残像かよ。とまぁ、こんな有様でして、ひどいな真実って。

 

今は私は私のやることがあるので、人と比べてどうというのは、ポーズとしてとって見せることはあるけど、結構収まってきて、ようやく「賞をきっかけに始めた俳句」が抜けつつあるのかなというところなんですが、ともかく、まぁそんな折ですよ。彼に会えたのは。ラインを交換したんですが、人付き合いがあまりうまくないのは相変わらずなので何を送っていいかわからない。でも四回目の子連れ句会のお知らせは送ろうと思います。


優夢さんは、まぁ、想像通りの人当たりの良さでしたよ。知ってたねんな、そういう人だろうというのは。


何より、火尖は書いてこれなので、話せば底が浅すぎてすぐに会話が詰まるので、それを取り繕うことばかり考えて基本誰にも会いたくないのですが、去年あたりからできるだけいろんな人とあって、吸収して面白人間になれたらいいなと思ってるのでみんな我慢して手伝ってください。

かぞ句会、無点やったねんな。それも含めていい句会でした。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/14(土)19:28

「子連れ」と「かぞ句」

少し間が空いてしまったのでそんなに詳しいことはかけないけど、

10月30日、三回目の子連れ句会がありました。

題は「食べ物」、大人は6名くらい?子供はいっぱい。

子連れ句会については、名前の通りですから説明不要だとは思いますが改めて言うと、子育てで俳句から離れた俳人や、子育てをきっかけに俳句に興味をもった人が、子供を連れて気兼ねなくできる句会のことです。

子供は子供同士遊んでもらって、大人は大人同士句会です。みんな子連れで来てるか、サポートで参加してもらってるので、途中騒がしくても退出しなくていいので助かります。

最近は現俳協の青年部主催で同様の趣旨の「かぞ句会」も始まって、今度は別のところ主催で歌会もあるらしくて、子連れ前提の句会があればいいなぁと想像してたころからすると、ちょっと変化がすごくて、どうなってるんだと思いますが、よくよく考えると、「子供連れてきて句会やろう」というだけなので、何も難しいことはないのです。やろう、子連れ句会!

ちなみにかぞ句会は、スピカの三人が中心になって、企画して、息子は紗希さんからりんごをもらって大喜びでした。あと、ついにあの俳人と初めて会いました。夫婦での参加もあって、かなり良い感じでしたよ。

ここまで書くとなんだかとってもいいことだらけのような気がしますが、三回目の子連れ句会とかぞ句会に参加して、何個か留意点があって、今後新しく子連れ句会を企画する人の参考になるかもしれませんので書いておきます。


・公民館の和室は比較的危険なものはないですが、かくれんぼを始めたり鬼ごっこを始めたりするので、ぶつからないように気を付けたり、けがをしないように気を付けないといけません。


・できるだけ広い部屋を取りましょう。


・大人は多いほうが助かります。第三回は葉月さんと、てふこさんに来てもらいました。ありがとうございました!


書いてみると当たり前ですが、句会への注意力は落としてでも、子供の動向は気にかけて安全確保が第一です。年長の子が小さい子と一緒に遊んでくれたりして、だんだん仲良くなってくの見ると連れてきてよかったなと思います。特にうちの子は休日仲良く遊べるお友達がいないので本当に助かります。

そして、小学生くらいになると、結構しっかりした句を出してきます。その前も四歳の子のビビッドな俳句に驚かされましたが、かなり面白い会になってます。

第四回は二月二十五日を予定しています。興味のある方はご連絡ください。

タイトルで言う割には内容に触れられなかったな。次回は熱いうちに記事にします。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/14(土)18:29

神奈川大学全国高校生俳句大賞最優秀賞について

兄面の兄恨めしき唐辛子

日記買う姉の意地悪書くために

かき氷弟らしくない自分   三原瑛心

これらは昨年発表された第19回神奈川大学全国高校生俳句大賞の最優秀5作品のうちの一つである。単発の賞としては高校生俳人の注目度の高い賞と言えよう。掲句に書かれているのは、兄姉に対する負の感情、自身の屈託を痛いほどストレートに詠った作者自身の姿である。

俳句甲子園未経験の私が抱く一般的な高校生俳人のステレオタイプを考えるとすると、それは、高水準の俳句スキルと感性を武器に攻守両面において立ち回りの効く句を発表し、ディベートも的確、俳句甲子園を勝ち上がってウェーイというもので、最後は幾分やっかみも入ったが、大人俳人から見るといやでも眩しく見えるのでそこはご容赦いただきたい。

しかし、実際の彼らに触れて見ると、「高水準のスキル」も「感性」もそれを習得する過程に嘘やごまかしはなく、ひたすら良い句、上手い句を作ろうと切磋琢磨しているのを感じた。良くも悪くも当然そこにはドラマが発生するし、俳句甲子園や賞という舞台を通してドラマが引き起こす「感動」によってスキル重視の傾向は俳句甲子園の意図とは違ったレベルで正当化され固定化されてしまっているのではないだろうか。上手さを求める風潮に若い俳人がどの程度近視眼的になっているか、その心の裡までは私にはわからないが、上手さとはある程度習得して損のない技術によって作られる類句類想の一パターンに過ぎないのだ。その点においては久留島元の年の瀬にに多くの示唆が含まれており、また、まとまった文として引用できないのが残念だが高校俳句の文法を理解しつつ引いて見ることのできる風見奨真や、俳句甲子園に対して批判的な眼を向けることのできる八鍬爽風など高校生の側からの反応に見るべきものがあることは付け加えておく。

さて、もともとは冒頭三句の鑑賞を一ヶ月ほど前から書こう書こうと思っていたのだが、先述の「年の瀬に」を読んだことにより前置きが長くなってしまった。そして、いつものスタイル、前置きだけ長くて本題は短い火尖パターンになってしまいそうだが、火尖の長文など読んでどうするのだ。しかしあと少しくらい読んでいったらどうなんだ。という心境だ。

さて、冒頭三句は決してスキルフルというわけではなくむしろ隙がある句と言え、例えば批判しようと思えば、「感情に寄りすぎて景が見えない」、「兄恨めしきと唐辛子が付きすぎではないか」、「恨めしきは切れるのか唐辛子につくのかわからない」「「姉の意地悪を書く」という答を言ってしまっているので広がりがない」などその批判の精度はともかく欠点をあげつらうことは比較的容易であり、全国クラスの高校生の水準からすると堅牢さにやや欠けるように思われる。しかし、そういった従来の堅い句と同様に掲句が選ばれたことにこの賞が一石投じたように感じる。私はこの句に、上手さという価値観とは別の「自分の詩」としての俳句を感じるのである。三原とはもともとTwitter上で付き合いがあり、実は彼自身は相当上手い部類に入る俳人だと思っている。しかし私が彼の句に惹かれるのは技術ではなく彼自身が俳句を「自分の詩」として絶対的に必要としていることが俳句から伺える点にある。言葉を握って離さない強さに惹かれるのだ。

最後に文中で的外れな批難例を出した分、

かき氷弟らしくない自分

について鑑賞して終ろうと思う。

「弟らしくない自分」は屈託した自己への眼差しと、その背後に透けて見える兄姉への充足しない気持ちが見て取れるが、口語の軽やかなリズムを使うことで、却ってそれを素直に表出できない鬱屈を感じさせ、ホースの口を絞るように感情の内圧を高めるという効果がある。

それに対してかき氷は幼少のころの兄弟の記憶を持ちつつも、あまりにも脆い存在として、溶けて崩れて、消えてしまうという宿命を背負わされてしまっている。かき氷は強く残る感情に対して消えてしまう宿命を負うことで季語としての役割を果たすと同時に、作者の孤独を際立たせてしまった。その結果残った痛みを、頭の中で何度も何度も反芻しているのではないだろうか。

彼のつぶやきからはっきりと漏れてくる生きづらさが彼の詩性の背景となっていることは疑いようはないが、その中で生まれる、自身に突き立てるような俳句は、紛れもなく彼だけが持ち得る強さの表れだと思う。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2017/01/01(日)03:35

慣性の国

人間の適応力、対応力、忍耐力とは本当に大したもので、どんなに酷い会社であっても働く人がいるし、だんだん生活が苦しくなってもすぐに死んだりすることはないし、今までできていたことや大事にしていたことを捨てても環境の方に合わせてしまえるんですよね。むしろ、それができないと批判の対象になります。

大体の人がすぐに慣れることができるし、やり方さえ間違わなければどんなに環境がひどくても、むしろそれをありがたいとすら思い始める。特に民主政を採ってる社会ではその選択は自分たちが自身に下したものとして社会を規定するので、人間の心理として、間違った選択をしたとは思いたくない。この環境は望んで手に入れたものなのだと思いたいのだと思います。その結果、先程も言いましたが、まだ慣れない人、慣れることができない人、異を唱える人を、敵視し排除しようとする。動物としての本能なのかもしれませんが。

きっかけを作っていじめる。電通を批判した社員を戒告処分にする。有給を取る人の陰口を言う。保育園に落ちた人の問題提起を言葉の問題にすり替える。これらは多分同一線上の出来事で、さらに今起きている政治上の問題にも同じ構図が当てはまるものがたくさんあると思います。

ところで、私は俳句を作っています。人とは違うもの、今までなかったものを作ることで、やっと自分の存在を確かめられるタイプの人間です。新しくできるものは、今までなかったものでないといけないと信じる人間です。俳句でなくて、詩でも短歌でも何か新しいものを作ろうという人は多分そういう人が多いのだと思いますが、本当に新しい詩を作れる人間は、決して、慣れる側の論理に身をおいたりしないということです。正直、大した評論も大きな賞も受賞したことはないですが、「慣れないでいることを恐れない」この一点が、自分の俳人としての可能性を信じる唯一の拠り所であり、自分の信じる強さだったりします。すごい評論がかければそれを自信の拠り所にしたいところではあるのですが、そんなものないしな。

恥ずかしいですけどね、こういうことを書くのは。

でも大事なんですよ。自分にとって。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/12/09(金)20:27

日本語を知らない俳人たち

実は古典文法には自信がない。高校時代の副読本を参照したりグーグル先生に旧仮名チェックや活用、音便の確認をお願いすることも多く、それらがなければ私の俳句活動は極めて不正確なものになるか、いっそ口語でやっていたと思う。

しかし、俳句の短さにおいて、「ゐ」や「ゑ」、言ふ、てふ、などの旧仮名遣いの視覚的効果は有効で、また、季語の効果(過去の詩歌のデータベース的性格)を句の上に構築するには文語旧仮名のフォーマットでもって、過去との連続性を確保するやり方は理にかなっている。この辺は未だにプログラミングが英語をベースになされるのと似ていると思う。

私は古典が苦手であったし、なにより受験勉強が苦手であったから、それこそ高校時代の試験では英語の長文読解とまったく同じ感覚で古典の試験に当たるしかなかった。しかし現文がそこそこ良かったので、ひとまず地方中堅私大レベルには届いていたので、結局苦手は避けてこれ以上古典の文法を覚えようとはしなかった。

むしろ俳句を始めてから文法の副読本を辞書代わりにしている状態だが、基礎がなってないので、やはり十分とは言えない。そんな状況だから、何年か前に話題になった、池田俊二の「日本語を知らない俳人たち」は当時恐る恐る読んだ。間違いがあれば改めようと思ったのだ。しかし、読み進めてみるとどうにも納得できない。特に過去の助動詞「き」の連体形「し」を完了の意味で使うのが誤用だというところなどは、有名句を磔にして文法的に違うと言われても、句の方に魅力があるものだから、どうも言いがかりをつけているようにしか見えなかった。文法の知識も日本語の歴史の知識も乏しかったから、そのときは、「文法的には間違いかもしれないが、音律上のメリットを捨ててまで文法に義理立てする必要はないだろう、まぁこういう批判があることは頭の隅においておこう」と思って、途中で読むのをやめて図書館に返した。著者の批判する日本語を大事にしない俳人で別にいいやと言うのが結論だったが、少し負い目を感じたというか、傷にはなった。

この傷は後年、週刊俳句に掲載された下記反論のシリーズを読むまで消えなかったことを考えると、意外に深かったのだと思う。

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/12/blog-post_7.html?m=1

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html?m=1

物理や化学、数学を例にすればわかる通り、高校の枠内で学ぶものは入り口の部分に過ぎない。入り口は大事だが、入り口ですべて片付くということはないのだ。もっとも言葉は変わりゆくものだから、日本語の得てきた豊穣さを捨てて教科書レベルに今後収斂されていくこともないわけではないだろう。できれば、そういった事態は言葉に関わる者としては避けたいところではあるが、言葉が変化していくこと自体は受け入れるしかないとも思う。

もっと勉強していればなぁと相変わらず後悔しているが、何にせよ日本語を知らない~をころっと信じて、したり顔で教科書レベルの知識を披瀝する嫌なおっさんになっていた可能性を避けれた過去の私は、中々冴えていたとその点においては満足している。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/11/17(木)09:34

かなり品のない自意識の空振りについての浅い考察 

浅は尖なり、こんにちは火尖です。
俳句甲子園は今回初めてある程度追うことができて
とても満足しています。
特に、家政学院の話題句については、面白かったですね。
週俳でも取り上げられているし、随所で考察がなされているから
もはや尖が出る幕でもないのだけど、みんな深い所に行ってしまって、
浅瀬の火尖は取り残されてるから、印象論や技術論を中心に
パシャパシャ水遊びする感じです。

さて、その、

利口な睾丸を揺さぶれど桜桃忌

については特に、2016/08/28の週刊俳句、福田若之の
利口であることも睾丸であることも桜桃忌であることも、さくらんぼの形も、
文の構造も、すべてを、太宰の「桜桃」を読み解くことで、
人間の「根底的な悲哀」に迫っていく、迫真の文章だった。
まだ未読のひとは、すぐにでも読みに行くと良い。
そして、別に戻ってこなくていい。

これから、始めるのは知識のない火尖が、
つまり、下品な自意識をぶら下げたある男が受けた恥ずかしさについてだ。
太宰の知識は無くて構わない。桜桃忌が太宰の忌日であるということさえ
知っていれば十分だ。

まず、「利口な睾丸」について、家政学院が試合で先に出した句のなかに、

船員の常に利口や小望月

という句があり、自解で、船員を揶揄したと発言していたので、
男性器に利口などとくっつけられれば、これも揶揄と捉えて
おそらく問題はないだろう。利口についての詳細な評は
週俳で十分語られているため、ここでは割愛する。男女ともに目を引く措辞だが、
特に男性にとっては、当事者だけに、尚更注目してしまうだろう。
「小生意気な女学生(この句の主体としては適切だろう)」に、シンボルかつ急所たる睾丸を揺さぶられるという
想像をした者は静かに手を上げろ。
そこで君たちがどのような感情を持ったかは、今は問わない。
静かに手を当てて今の気持ちを大切にすればそれでいい。
大事なのは、次の「揺さぶれど」で切れていることだと思う。
逆説で切れているので、次に来るのは俳句的な経験でいえば、
おそらく、うんと飛躍させた季語が来るというのがセオリーであり、
もう勘弁してよという、男性陣の願いでもある。
しかし、出てきたのは

「桜桃」忌、さくらんぼである。

逆説でつなぐかに見せかけて、ド直球の急所狙いなのだから、
急所で急所を狙われた会場のどよめきたるや想像に難くない(ちょうど句の発表の時はSara句会に行ってて見れなかったのです)
そのとき具体的に浮かぶ景は、サクランボのような睾丸である。不可避。
そして、ここが、本当に作者の優れたところだと思うのだが、
桜桃と出しておいて、実はサクランボでもなければ、現実のモノですらない、
そう桜桃忌なので、当然忌日で、文豪、太宰治の命日なのだ。睾丸と本来まったく関係ない。
つまり、飛躍と見せかけて直球、と見せかけてセオリー通りの飛躍系季語である。
読者の読みの自意識を自在に利用したはぐらかしに
火尖はまんまと引っかかり、素直にすごく驚かされた。恥ずかしいあけすけな想像をしてしまった。
このような感情の揺さぶりを、句を読む一瞬で三回、
読者を打ち込む凶暴な句を私は急には思いつかない。ないかもしれない。
ボクサーに例えたほうが早いくらいだ。それぐらい面白い句だった。
そして、福田若之の評を読んで、さらに、この句のファンになった。

最後に、かなり品のない体で評を書いてしまって、
作った方に、無用のストレスを与えてしまったとしたら本当に申し訳ない。
しかし、できる限りこの句に驚かされたことを正直に書こうと決めたら
こうするよりほかになかったのだ。
品がないのは火尖の方なのだ。悔やむ他ない。

しかし、俳句に品とかを、むやみやたらと求めたがる奴の心根の方が
正直、つまらないと思うし、この句自体は、とても面白く読めるが、読み手の自意識を抜いて、
俳句表現の歴史や枠で捉えれば、良くも悪くも収まっている句だとは思う。
なので、この句が作者のこれからの人生に必要以上に重石にならず、
作者の青春時代に生まれた、一つの成果として、ちゃんと輝けばよいなと思う。




俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/09/04(日)09:00

俳句プラモデル説

俳句は作る人が圧倒的に多くて、純粋な読者となると極端に少ない。
もちろん調べたわけではないけど、少なくとも、俳句は読むの専門ですって人は
火尖は多分いまだ会ったことがない。
前回の俳句の勉強会、東京俳句では、本筋のトークではないが、俳句で稼ぐにはどうすればという話もした。読者不在の状況では、作品を読んでもらうことで収入を得るのは厳しそうだ。
そうなると当然、とういか実際、人の俳句を読む方がお金になる。
ここまではただの確認。みんなそう思っているし、その状況を変えようと頑張っている人もいるし、もちろん奇跡的に売れる句集だってあるかもしれない。

とまぁ、そんな俳句ではありますが、そんな読者不在の俳句は果たして文芸と言えるのかという疑問がでるのも当然の向きでしょう。だって純粋読者ほぼいないんですよ?
でも今回そこのイエス・ノーには敢えて立ち入りません。しかし、私から言わせれば俳句は文芸よりも多分プラモデルに近いですよ。プラモデル。

初心者でも説明書通りに作ればひとまず形になり、作ったからと言って基本売れるわけでもなく、同じプラモでも作り手のセンスや工夫、見せ方で全く違った作品になり、ごくごく少数ですが、それだけで食べている人間もいる。プラモデルを趣味にしている人で、「作ったことありません、見るの専門です」ってのも極端に少ないんじゃないですか。
大会にはたくさんの作者が集まったり、雑誌や書籍では作り方やハウツーが主なコンテンツってとこまでそっくり。
「俳句は季語を含む五七五定型詩」は、「プラモはキットを購入して組み立てる模型」という風に、すんなり言い換えができますし、無季俳句は市販のキットを使わずに作ったプラスチック模型とでもいいましょうか。自由律は材質に拘らない、ですかね。
極めつけはガンプラですよ。あれはホトトギスです。

そんなプラモデルが普及のために増やすとすればもっと作者を増やすような施策をうつでしょう。作って楽しいというのがやはり一番の魅力でしょうし。それでプラモが先細るとか、多分そんなことはないと思いますよ。
そう考えると俳句も何をどうすればいいか分かった気になってきました。
まずは作者になった上で、その気があれば読者になったらいいんじゃないですかね。読者の数が少なくてもいいんじゃないですか。でも優れた読者になったらお金が入る。作者が読者を大事にする文芸でいいじゃないですか。
句集売れなくてもいいとは言いませんよ、でも今みたいにとりあえず作って、無料で配りまくるなんて止めたらいいと思う。俳句関連書籍のクラウドファンディングサイト作ろうよ。受注生産すればいいやん。すごく読みたい本はお金出して買う。これが誰にとってもいい結果になると思うんですよね。
その中で売れる作者ってのは、ちょっとかっこよすぎるわ。あこがれる。



俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/08/02(火)15:00

子連れ句会二回目やるよ!!

二回目の子連れ句会が近いので、今回のテーマの自分より大きい動物についてちょっと書く。
結構ね、子連れ句会は俳句の新しい角度のイベントになれるかもしれないなあと思ってる。定着してもっと広がればいいなぁ。行こうかなぁって迷ってる人がいたら、おいでって自信を持って言える多分。

適当に、動物の俳句について。
大きい動物ですぐ思い浮かぶのは、飯島晴子の、「月光の象番にならぬかといふ」だけど、よく考えたらこの句は象ではなくて、象番が詠まれた句で、さらに言えば象番よりも、月光の印象について書かれている気がする。でも、いい句だから許して。「ならぬかといふ」のあたりに月光の降りてくる感じがするのだ。
誰が言ったのか忘れてしまったが、良い俳句というのは、狙ったマトのさらにもう一枚向こうに思いがけず届く俳句だという言葉を思い出す。

「恐竜には致死量の憂鬱だつたか」
松本恭子と言えば、「恋二つ レモンはうまく切れません」で名を馳せた俳人だが、どちらかというと私は彼女の等身大の俳句よりも、肥大化した感情を持て余す句に魅力を感じる。
掲句も恐竜という巨大さや鈍さが、却って憂鬱に対する、なす術のなさを強調している。このように巨大な対象を詠むことで、それに降りかかる効果をさらに強調できるというのも大きなものを詠む醍醐味と言えるかもしれない。
同じ作者の「鏡よ鏡人間たちの燃えやすき」も夥しい人間の量というスケールメリットを存分に活かしているように思う。

その他に
父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し 寺山修司
桜散るあなたも河馬になりなさい 坪内稔典
生き急ぐ馬のどのゆめも馬 摂津幸彦
秋の馬水にかこまれゐて寧し 大木あまり
遠雷や麒麟の長き舌は濡れ 柿本多映
など、小動物ほどではないが、様々な句が試されている。

そもそも大きい動物を見れるようになったのは動物園の登場によるところが大きいので小動物よりは、歴史が浅いのはもうしょうがない。
見方を変えれば、まだ手垢のついていない領域が残されてるかもしれない。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/07/16(土)00:24

俳句の未来

 さて、佐藤文香については正直なところ現時点では批判すべき点が見当たらない。作品も文章も面白く、俳句を愛していて、俳句で生きていくという強かさも持ち合わせているし、俳句以外の世界にチャネルが開いていて、どう俳句を認めさせるかという点でもかなり意識的に活動していると思う。私にとっては、常に気になる俳人であるし、第一、第二句集も別に買ったりしてないけど、好きな句はたくさんある。
 以前、過去記事のあれやこれやで批判(2009-02-012009-02-012009-02-09)を試みたことがあるが、今や俳句は彼女にほだされてしまったというか、これからの俳句にふさわしい俳人に佐藤がなったというか、そんな印象すらある。前回ブログで書いた虚子、子規の話であるが、後は我々が彼女のフォロワーになりさえすれば、準備OKというわけだ。そのためのチケットとして「俳句を遊べ!」は非常によくできている。これは買った。面白かった。
 実際、佐藤文香が本気で動けば、相対的なものにまで弱まった俳句の価値観のいくつかは一気に確定してしまうだろう。方向性を見失っていた俳句を、子規の唱えた写生のように、あるいは虚子の花鳥諷詠のように導く力がすでにあると見ていい。写生、花鳥諷詠に続く、佐藤の著作頻出の「面白い」という価値観によって俳句は革新されるだろう。もちろんその「面白さ」は「俳句を遊べ!」を読めば分かる通り、画一的なものではなく、様々なものを認める方向に働くので、批判のし辛さという意味でもよくできている。
 おそらく既存の俳壇ともうまく付き合いながらも、佐藤が築く「俳句外部に読者を持つ新しい俳句圏」に人材の多くは集まるようになるだろう。こうなってくると、支持基盤構造がガラリと変わるわけだから現代俳句の続編ではなくて、未来の俳句と呼ぶべきものとなり、名実ともに佐藤文香によって俳句革新が成るというわけである。
 ただし、それによって打ち捨てられてしまうものがあるはずである。それは例えば俳句の「面白くなさ」であり、あるいは「停滞」そのものではないだろうか。虚子没後、俳壇は中心を失い、凪ぎの時代が長らく続いたが、ようやくその時代を所与のものとした若手が台頭し始め、むしろ、凪いだ今だからこそ、「俳句とは何か」「俳句の分からなさ」について余計な夾雑物なしに考えることができるようになってきたと言えるのではないかと思う。停滞しているように見えるときほど、その内部では新しい胎動がみられるというものだ。そしてその動きはまだ始まったばかりである。佐藤文香もあるいはこの停滞から生まれたのかもしれないが、彼女の強い個性が、そういった他の胎動を、例えば「面白く」なければならないと染め上げてしまうのか、どのように扱うか注目したいと思う。

まとまったような、まとまってないような、勢いだけの文章になってしまったが、最後に口直しに、当時すでに彼女に子規を重ねていた記事を紹介して寝る。当時とは状況も違うけど、中々面白いと思う。


俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/05/30(月)22:53

現代俳句の続編

誰もが思っているかもしれないことは火尖も思うわけで、

要はそれを言うか言わないかだ。
私は凡そ、文章を書くための武器と呼べそうなものは持っていないけれど、
唯一、出来ることと言えば、本来誰でも出来ることしかない。
例えば冒頭にもあるように、言うか言わないかでいえば、言う、もう言ってしまう。
そういう、人のわざわざやらないことをやるという点で、
ぎりぎり俳句の世界に関わりたいとは思う。

前振りが長くなったけど、結局実は今回言いたいのは一言だけで、

子規を神野紗希、虚子を佐藤文香とした
現代俳句の続編がもう始まっているのではないか。
その中で淘汰されるものと称揚されるものの峻別を
再び全ての俳人が受けなければならない、という続編。
そして、それはおそらく選という形をとらず浸透するのではないか。

ここから先を書く力が本当は欲しいのだけど、
それがあれば、そもそもこんなこと書いていないよなぁ。

追記、
Facebookで、佐藤文香子規説が出てるので、佐藤文香は子規兼ねる方向で。確かにそんな気がする。

しかし、神野紗希については、そのフラットさで何か起点のような構造を押さえられている気がする。




俳句の振れ幅 | コメント(0) | トラックバック(0)2016/05/29(日)16:45

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自己弁護

kasen

Author:kasen
1984 11 生まれる。
2005 03 俳句を始める。
2006 01 炎環入会

好きな食べ物・ラーメン
好きな建物・図書館
好きなのは言葉。

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